韮崎市民俗資料館ブログ〜「にらみん」のお散歩日記〜
「にらみん」は韮崎市民俗資料館のニックネームです。伝えたいな~、このまちのいろんなトコやコト♪
さらに縄文王国の仲間からもう1館。
笛吹市の山梨県立博物館で開催中の「鵜飼〜甲斐の川漁と鵜飼をめぐる伝説〜」展をご紹介します。
会期は、平成27年5月30日(土)〜7月6日(月)となっています。

↓詳しくは山梨県立博物館HPへ↓
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/
山梨県立博物館 鵜飼展














魚を捕える鵜の姿を描いた全国で初めての土器が確認されたということで、先日新聞やテレビでも報道されましたが、その土器(甲府市の外中代遺跡出土・平安時代)も展示されています。
韮崎市からの資料の貸出は行っていないのですが、韮崎の川に関わる面白いお話を聞くことが出来たので、ご紹介したいと思います。

「鵜飼」と言えば、皆さんご存知のとおり「鵜」という鳥を操ってアユなどの川魚を捕る漁法のことです。おそらく最も有名なのは岐阜市の長良川で行われる鵜飼でしょう。「面白うてやがて悲しき鵜飼かな」という松尾芭蕉の俳句に詠まれたことでも広く知られています。

でも、鵜飼について、今書いた以上の知識をお持ちの方はどれくらいいらっしゃるのでしょう!?にらみんの独断と偏見ですが、世間の多くの方が持っている鵜飼についての情報量は、こんなものではないでしょうか…?

そもそも、ここ山梨県で現在も鵜飼が行われていることをご存じですか?
笛吹市石和町で毎年夏に行われています。しかも、石和の鵜飼は、全国的に見てとても貴重な存在なんです。

まず一つの理由は、現在存続している鵜飼のうち、石和が日本の東限に位置しているということです。鵜飼が存続している地域は、先述の岐阜県の他は西日本に多く(京都・和歌山・広島・愛媛・福岡・大分)、山梨より東の地域では、現在鵜飼は行われていません。

もう一つの理由は、石和の鵜飼が舟に乗らない「徒歩(かち)鵜飼」であることです。
古来、鵜飼には舟を使う「舟鵜飼」と、使わない「徒歩鵜飼」とがありました。
鵜飼の一般的なイメージは、舟にかがり火をつるし、鵜匠が舟に乗った状態で鵜を操って漁をする「舟鵜飼」の方だと思います。
ですが、石和では鵜匠は歩いて川の中に入り、立った状態で鵜を操って漁をします。この徒歩鵜飼のスタイルを残しているのは、石和と和歌山県有田市のみなのですが、有田の鵜飼は残念ながら休止中なので、事実上石和だけなのです。

山梨の観光情報に敏感な方なら、毎年石和で鵜飼が行われていることをご存知かもしれませんが、それが現時点で全国唯一の徒歩鵜飼だということまでは中々知られていないのでは?
かく言うにらみん自身が、石和の鵜飼がそんなに貴重なものだとは、(申し訳ありませんが)今まで知りませんでした。
ほとんどの方にとって鵜飼は未知の世界のはず。この展覧会を見ると新しい発見の連続になると思います。(何より、鵜ってこんなかわいいんだ!という発見があります。ペリカン科なんですって)

メディアで報道された外中代遺跡の絵画土器のほか、群馬県保渡田八幡塚古墳の鵜形埴輪(複製)や、日蓮上人が鵜飼の亡霊を鎮める際に法華経を記したと伝わる遠妙寺の「経石」、江戸時代の甲斐の鵜飼の実態を示す古文書など、鵜飼の歴史とともに信仰・伝説の面から見た鵜飼の姿も分かる展示になっています。

だいぶ前置きが長くなりましたが、その展示の中で、江戸時代の甲州街道韮崎宿の名物を記した番付表がパネルで紹介されていました!
以前このブログでも取り上げた『韮崎宿名所名物品々』(文政9年=1826年発行)いう資料です。
残念ながら原資料は残っていませんが、『韮崎町制六十年誌』という本の中に複製が収録されており、内容を知ることができます。
韮崎宿名所名物品々(ブログ用)















その番付表の何が鵜飼と関わるかというと、西(向かって左)の前頭筆頭にランクインしている「釜無川の鮎」です。
添えられた説明文を見てみると、「土用を待って東郡より鵜つかひ来る」と書かれています。
東郡より鵜つかい来る















今まで漠然と「石和の方から鵜飼の人が来てたんだなあ」と考えていたのですが、それ以上具体的には分かりませんでした。今回の鵜飼展を見て、それが国府村(現在の笛吹市春日居町国府)の鵜匠だった可能性が高いことを知ったのです。

韮崎の番付表に「東郡から鵜つかひ来る」とわざわざ書かれているということは、韮崎周辺には鵜匠がいなかったという意味だと解釈されます。
県博の学芸員の方に伺ったところ、生業として鵜飼を営んでいた人の記録は非常に少なく、東郡で確認できたのは江戸時代の国府村の記録のみだそうです。
さらに、国府村の鵜匠数名が今の北杜市武川町宮脇で鵜飼を行ったことを記した文書も展示されていました。つまり、東郡の鵜匠は近隣の川で漁を行うのみならず、北巨摩地域まで出向いて漁をしていたことが確認できるのです。
まさに「東郡より鵜つかひ来る」。韮崎の釜無川で鵜飼を行っていたのは、この国府村の鵜匠である蓋然性が高いと言えます。
一つ謎が解けたというか、韮崎に欠けていたパズルのピースがパチンとはまった感じがして、何だか嬉しくなりました。

鵜飼で捕れた鮎は傷が少なく鮮度が落ちないため、味がすぐれていると言われています。
東郡の鵜匠が捕った釜無川の鮎も、さぞかし味が良かったために番付表の上位にランクインしたのでしょうね。

ちなみに、韮崎の名物番付で西の前頭筆頭「釜無川の鮎」と並び立つのは、東の前頭筆頭「塩川の鰻(うなぎ)」です。
その添え書きを見ると、「下り魚梁又はつり針にてとる」とあります。

魚梁は「やな」と読み、川の中に竹や木で組んだ大きなすのこ状の構造物を設置して、打ちあがった魚を捕る漁法です。やな漁には遡上する魚を捕る「上りやな」と、川を下って来る魚を捕る「下りやな」がありますが、鰻の場合は下りやなです。番付表にもそう書いてありますね。

この魚梁の他、鰻捕りには「もじり」(うなぎうけ、とも言う)という筒状の道具も使われました。細く切った竹を並べて筒状にして、一方の先を閉じたものです。これを川に仕掛けておくのですが、中に鰻や鮎が入ると出られなくなる構造になっています。
うなぎうけ















韮崎市民俗資料館には、この「もじり」や、取れた魚を入れる「魚籠(びく)」が展示してあります。
魚籠の中には、腰に当たる部分に板が付いたものもあります。工夫されていますね。
魚捕りに関する道具の展示














今ではもう東郡から韮崎に鵜匠さんが来ることはありませんが、漁に関する道具を見て、韮崎の川で漁が盛んだった頃や、水陸のネットワークを通じて様々な生業の人たちが韮崎とつながっていたことを想像してもらえたら嬉しいです。
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