韮崎市民俗資料館ブログ〜「にらみん」のお散歩日記〜
「にらみん」は韮崎市民俗資料館のニックネームです。伝えたいな~、このまちのいろんなトコやコト♪
食の道具関連コーナーでは、自動ハエ取り機「ハイトリック」と
年貢米に付ける「御城米の旗」が並んで展示されています。

御城米の旗の展示













ハエと年貢米って、別に関係ないのでは…?
と思いますが、実は韮崎の歴史においては大アリなのです。

江戸時代、韮崎宿は年貢米の一大集積地でした。
甲斐国北西部(現在の北杜市に相当する辺り)および信濃国南部の村々(現在の長野県佐久地域や諏訪地域の南部)で生産された米が、年貢米として江戸へ運ぶべく韮崎へ集められたのです。
韮崎は、下諏訪と江戸を結ぶ甲州街道の宿場であり、佐久へつながる佐久往還との分岐点でもあったため、甲斐西北部や信濃南部の米が集まる場所となりました。

そして、韮崎宿に集まった米は陸路(駿信往還)で鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)に運ばれることもあれば、船山の船着き場から釜無川の水運で鰍沢河岸へ運ばれることもありました。
鰍沢は駿河湾へ通じる富士川水運の拠点であり、江戸へ年貢米を大量輸送するための集積地になっていたからです。

(補足ですが…今は、山梨から東京へ物を大量に輸送するには、
中央道やJR中央線を使って甲府〜大月〜八王子へと行くのが最短というイメージですが、江戸時代の年貢米はそうではありませんでした。
陸路ではなく、富士川を舟で下って駿河湾へ運ぶのです。そして清水港から江戸へ舟で大量の米を運ぶのが最も効率的でした。そのため、鰍沢河岸が年貢米の集積地であり輸送拠点になっていたのです。
東京へ物を運ぶのに、一度海を経由する!今ではちょっと思いつかないですよね)

つまり韮崎宿は、甲斐国北西部・信濃国南部と鰍沢河岸とを結びつける、年貢米輸送の重要な中継点になっていたといえます。
では、年貢米を韮崎宿に運んでくるには何が必要だったでしょう?

それは「馬」です。
今でいえば運送用トラックですものね。
ということは、韮崎宿には各地からの米を運ぶ馬がわんさか集まったわけです。

とすれば、必然的に何かが多くなります。
「馬のふん」ですね。

そして、ふんが多くなればハエも多く集まる…!

だから、韮崎宿にはハエが多かったんです!!
その証拠をお見せします。

これは江戸時代後期の文政9年(1826)に発行された
「韮崎宿名所名物品々」という番付表です。
(『韮崎町制六十年誌』に収録されています)

馬宿の蝿がランクイン!













右から二番目に注目すると、「馬宿の蝿」が関脇にランクインしています。
大関たる「裏富士」や「穴観音」に次いでの関脇ですから、
相当な“名物”として認識されていたことが感じられます。
ちょっとショック…?

でも、それこそが韮崎宿の繁栄の証なのです。
番付表には「牛馬の通行多き故なり 馬宿の蝿」とはっきり書かれていますからね。

江戸時代に歌われた民謡「韮崎節」には、
“♪韮崎宿は馬糞宿 雨が降れば馬糞の水で飯を炊く♪”
というフレーズがあります。
まさに番付に載った光景が想像されます。

明治15年(1882)生まれの方の回顧談によると、
朝10時頃には巡査が宿場の交通整理に出て、近隣の村からは
馬ふんを拾う人々がやって来たそうです。
馬ふんは肥料になったため、集めて農家に売ったのです。
先の回顧談によると、それで財をなした人もいるとか…。
 
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