韮崎市民俗資料館ブログ〜「にらみん」のお散歩日記〜
「にらみん」は韮崎市民俗資料館のニックネームです。伝えたいな~、このまちのいろんなトコやコト♪
2016/03/26(土) 10:38:07

3月26日 桜だより

昨日あたりから、蔵座敷とロケセットの間の桜の木が咲きはじめました。

ちらほらと花開いてます。開花宣言ですね!
3月26日 蔵座敷とロケセットの間の桜












3月26日 蔵座敷とロケセットの間の桜 部分













こちらは、ロケセットの前から神山町方面をのぞんたところ。
大村美術館や武田八幡宮がある方です。
写真の真ん中あたりを拡大すると、あの有名なものが…
3月26日 神山方面を見る













「王仁塚の桜」です!まだつぼみですね。
写真だと茶色に見えますが、肉眼だと明らかに、木全体がピンクっぽく見えるんですよ^^ 
3月26日 わに塚の桜













ちなみに下の写真は、同じくロケセットの前から昨年2015年4月2日に撮影したものです。
わに塚の桜が満開になると、まあるいピンクの風船が田んぼの中に浮かんでいるように見えますよ。
2015年4月2日 わに塚の桜















王仁塚の桜の開花状況は、観光協会HPからご覧いただけます。
http://www.nirasaki-kankou.jp/
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今朝は冷たい風が吹いて冬に戻ったようです。
それでも、しっかりと桜はつぼみを膨らませています。

休館日明けの今朝、ロケセット裏の桜が開花していました。木全体で見ると、咲いているのは2割くらいでしょうか。
ロケセット裏の桜 3月24日 全体















この木については、ばっちり開花宣言出せますね。
ロケセット裏の桜 3月24日 アップ














ロケセットと蔵座敷の間の大きな桜は、まだ宣言とはいかず…。一輪咲いていました。
蔵座敷とロケセットの間の桜 3月24日 部分













蔵座敷とロケセットの間の桜 3月24日 全体















一方、韮崎駅前のロータリーの桜(小彼岸桜)はライトアップがはじまりました。
3月22日(火)~4月6日(水) 午後6時30分~午後10時までの予定です。
詳しくは、下記のリンクをご覧ください。

「韮崎駅前の小彼岸桜をライトアップしています」(韮崎市HP)
http://www.city.nirasaki.lg.jp/docs/2015032700017/

また、多くの方が関心を持たれているであろう「王仁塚の桜」の開花状況は、観光協会HPでごらんになれます。

韮崎市観光協会HP
http://www.nirasaki-kankou.jp/

ちなみに、韮崎駅前のロータリーの小彼岸桜が長野県の高遠町から贈られた桜であることをご存知ですか?
その理由が、遠く戦国時代にさかのぼることも。

韮崎駅前ロータリーの小彼岸桜(古くて申し訳ありませんが、2014年3月29日撮影です)
2014年3月29日 韮崎駅前の桜













由来を記した説明看板もあります。
韮崎駅前 高遠の桜の看板













ここ韮崎市から甲斐駒ヶ岳を望んだとき、その山の向こう側には、桜の名所・高遠城跡を有する長野県伊那市高遠町が位置しています。
高遠城は、永禄5年(1562)に武田信玄の四男・勝頼が城主となりました。しかし、勝頼はのちに甲斐国に呼び戻されます。信玄の後を継ぐはずだった長男の義信が、父と対立して自害に追い込まれたため、急きょ勝頼が後継者に指名されたのです。

天正9年(1581)、勝頼は新しい政治の拠点として韮崎に新府城を建設し、領国統治に力を尽くすことを志します。
同じ年には、勝頼のすぐ下の異母弟である仁科盛信が高遠城主となりました。

ところが翌天正10年(1582)、織田信長の長男・信忠が五万の大軍を率いて高遠城を攻撃します。味方の城が次々と織田軍に降る中、盛信は降伏勧告を拒否し、三千人の城兵と奮戦します。しかし、織田軍の猛攻によって戦死し、3月2日高遠城は落城しました。
一方、勝頼は高遠落城の翌日に自ら新府城に火をかけて落ち延び、3月11日に天目山(いまの甲州市大和町)で自害しました。
勢力を弱めていた勝頼を裏切ることなく、最後まで戦い続けたのは高遠の人々だったのです。

このような歴史的背景を持つ韮崎市と伊那市高遠町(桜を寄贈して下さった当時は上伊那郡高遠町)は、昭和49年(1974)以来、毎年相互交流を実施しています。
韮崎駅前ロータリーにある小彼岸桜は、昭和53年(1978)に高遠町より寄贈されました。
 
大河ドラマでの勝頼公の人気の高まりを受けて、ありがたいことに新府城跡へおいでになる方々が増えております。

「新府城跡を見学したいのだけど、案内パンフレットはありませんか?」
というお問い合わせも頂いております。

そこで、新府城跡を分かりやすく解説したパンフレット「親子で歩く新府城」PDFデータでダウンロード出来るようにいたしました。
下記のリンク(韮崎市役所ホームページ内)をクリックしてダウンロードしてご利用下さい。
8ページを一括でダウンロードできます。

解説パンフレット「親子で歩く新府城」全8ページ(5.19MB)
http://www.city.nirasaki.lg.jp/docs/2016021800022/

1ページずつダウンロードされる方は、下記のリンクからどうぞ。
(韮崎市民俗資料館ブログ内)

「親子で歩く新府城」 1ページ目 (857KB)
「親子で歩く新府城」 2ページ目 (637KB)
「親子で歩く新府城」 3ページ目 (761KB)
「親子で歩く新府城」 4ページ目 (678KB)
「親子で歩く新府城」 5ページ目 (762KB)
「親子で歩く新府城」 6ページ目 (813KB)
「親子で歩く新府城」 7ページ目 (876KB)
「親子で歩く新府城」 8ページ目 (830KB)

A4一枚の手軽なマップがほしいという方には、下記の「新府城跡お散歩マップ」もございます。

「新府城跡お散歩マップ」(A4)

「新府城跡お散歩マップ」 (417KB)

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親子で歩く新府城 表紙 ブログ用



















 
昨日の朝は雨が本降りでしたが、雨脚が去った後はさわやかな青空となりました。
そして、今日も絶好の行楽日和です!陽射しがあたたかい。

どこへ行こうかな?と考えている皆さま、韮崎でお祭りをやっていますよ!

韮崎駅からほど近い名刹・雲岸寺の「窟(あな)観音祭り」が今日と明日の二日間開催されます(写真は節分会の時のものですみません…)。
雲岸寺












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(以下は韮崎市観光協会HPより)

峡北に春を告げるお祭り「窟観音祭典」が、雲岸寺にて今年も行われます。
●日時
平成28年3月20日(日) 歩行者天国:午前9時~午後9時

3月21日(月) 歩行者天国:午前9時~午後7時

●場所    雲岸寺境内、窟観音御堂(韮崎市中央町11-2)
●行事    3月20日      バンド演奏、マジックショー、福引大会、
                   よさこい踊り、フジサクラ塾(歌と踊り)
                    風船ショー 終日
        3月21日     窟観音本堂にてご祈祷会、稚児行列(町内を徒歩進行)、
                   マジックショー、バンド演奏、よさこい踊り、
                   フジサクラ塾(歌と踊り)、ビンゴ大会、じゃんけん大会
                    風船ショー 終日
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窟観音祭りは毎年春分の日の前後二日間に行われ、「峡北(山梨県西北部)に春を告げるお祭り」として有名です。
その名のとおり、このお祭りの頃には桜がほころび、明らかに風の匂いが春のものに変わっています。
今日、明日はまさにその「春を告げる」感覚を五感すべてで感じられるでしょう。

お祭りのお楽しみ、屋台もたくさん出ますよ^^ 足を運んでみてはいかがでしょうか?

そして、「お祭り」だけでなく、雲岸寺というお寺さんそのものに大変見どころがあります!

雲岸寺は、江戸時代の甲州街道と佐久往還の分岐点(いまの「本町」交差点)の近くに位置する古刹です。
室町時代の寛正五年(1464)に真言宗の道場として開かれ、その後、江戸時代初めの元和元年(1615)に蔵前院二世の天越和尚により曹洞宗に改められました。

境内東側の七里岩の断崖には、弘法大師・空海が自作の観音菩薩像をまつったと伝わるほら穴「窟(いわや・あな)」があり、寺の起源は平安時代までさかのぼるとも言われています。
雲岸寺が通称「窟(あな)観音」と呼ばれているのは、このほら穴があるためです。
弘法大師が観音像を安置したのち、地元の人々がそれを覆うお堂を建てました。岸壁に貼りついてます!

窟観音堂















寺記によると舞台づくりのお堂が作られたのは寛正六年(1465)で、以後江戸、昭和、平成と修理を重ねながら今に至っています。ほら穴に庇(ひさし)とベランダを付けたような形で、まるで断崖にお堂がめり込んでいるようです。
お堂の中は下の写真のようになっています。石畳に朱塗りの柱で立派です。窟観音祭りの日は、年に一度観音像が開扉されます。
窟堂には観音菩薩像だけでなく、江戸時代の寛文八年(1668)に開眼した千体仏もまつられています。
ぎっしりと並んだ小さなお地蔵さんです。この千体の中に自分と目が合うお地蔵さんがいて、見つけられると良いことがあると言われています。
窟堂の中
















また、窟の左脇に岸壁を貫通したトンネルがあり、昔から参道として使われていました。
トンネル













トンネルの東側出入口(旧市民会館跡の公園)の様子。韮崎駅から歩いて来た場合、こちら側が近道になります。
穴観音東側参道















門柱の脇には「岩屋観世音」と書かれた享保九年(1724)の石碑が建っており、江戸時代にはすでに参道として使われていたことが分かります。
岩屋観世音
















雲岸寺の窟の左脇からつづくトンネルを抜けると、旧市民会館(市民交流センター「ニコリ」の前身)の跡地に出ます。
いまは小さな公園になっていますが、その一角に甲州街道と佐久往還の道標が保存されています。
この道標は、もとは韮崎宿の甲州街道と佐久往還の分岐点(いまの「本町」交差点)に立っていたものです。

右   信州さく郡のみち
左   信州すわ上みち
側面  元禄八乙亥年八月
旧市民会館道標














この道標がもと立っていた場所です。今の「本町」交差点にあたります。
本町交差点














江戸時代、交差点の北側は角島こと百瀬家、南側は大島屋こと保坂家という韮崎宿屈指の商家でした。
昭和四十七年(1972)の札幌冬季オリンピックの際は、東京からやって来た聖火をここで二つに分け、一つは佐久往還を通って佐久へ、もう一つは甲州街道を通って諏訪を目指し、以後二つのルートで札幌を目指していったという逸話があります。

窟観音のお祭りにおいでの際は、ぜひ周りも散策して、歴史の痕跡を探してくださいね。
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昨日から暖かくなり、蔵座敷やロケセット付近の桜がみるみるつぼみを膨らませています。

蔵座敷とロケセットとの間にある桜です。遠目にはまだ花の気配はありませんが…
蔵座敷とロケセットの間の桜 3月20日















近づいてみると、もうつぼみの中に「ピンク色」が見え始めています。
拡大 3月20日













ロケセットの裏の桜は、もっと早い!今にも咲き出でんとしているようです。
ロケセット裏の桜 3月20日













ロケセット裏の桜2 3月20日














 
本日付の山梨日日新聞において、韮崎市穴山町の宿尻遺跡から出土した“笑顔の土偶”が「山梨の遺跡発掘展2016」に展示されていることが紹介されました。

宿尻遺跡 笑顔の土偶













お問い合わせの多い“笑顔の土偶”に会えるチャンスです。
ぜひ山梨県立考古博物館へ足をお運びください!

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山梨県埋蔵文化財センター主催・山梨県立考古博物館共催
「山梨の遺跡発掘展2016」

会場: 山梨県立考古博物館 (甲府市下曽根町923)
URL: http://www.pref.yamanashi.jp/kouko-hak/special/isekihaxtukututen2016.html

日時: 平成28年3月12日(土)~4月10日(日)

展示内容についてのお問い合せ:
山梨県埋蔵文化財センター 055-266-3016

会場・アクセスについてのお問い合せ:
山梨県立考古博物館 055-266-3881
山梨の遺跡発掘展2016















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宿尻遺跡は旧穴山小学校跡地や穴山ふれあいセンターの南側に位置しています。


宿尻遺跡からは、竪穴式住居の中で石で囲った炉の跡も見つかっており、その石の一つが山の形に似ていることも注目されています。縄文人が山へ特別な思いを抱いていたことの表れとも考えられています。

韮崎市からは宿尻遺跡の他、新府城跡から出土した遺物も展示されております。
城の正面入口(大手)に向かう大手道とみられる敷石遺構が見つかったことなど、新しい発掘成果がパネルで解説されています。

「山梨の遺跡発掘展2016」は何と無料で観覧できます!ぜひどうぞ!

ちなみに、「笑顔の土偶」って、探すと他にもあるんですよ(*’▽’)
民俗資料館にも、ほら、いたいた。

以下の土偶たちは、韮崎市穂坂町の女夫石遺跡から出土したものです。
現在、民俗資料館で展示しています。

目じりの上がり具合がたまらない。目と口の距離感やほっぺの丸みになごむ…。
資料館にもある 笑顔の土偶2















この子は笑顔というより、クスっとした微笑みかな?
ほんのり上がった口角がかわいい。
資料館にもある 笑顔の土偶














「笑顔の土偶」は、果たして縄文人が意図的に笑い顔を造形したものなのか?
それとも、現代の私たちには「笑っているように」たまたま見えるのか?
その答えは分かりません。

「…のように見える」のであれば、こんなのもありますよ。

「あくび土偶」 (-_-)zzz
あくび土偶?1










あくび土偶?2














ああもう、見るだけで脱力します…。


 
今週の土曜日、3月19日(土)から、山梨県立博物館にて特別展「武田二十四将」がはじまります。
わが韮崎市からは、新府城下の家臣屋敷跡と考えられている「隠岐殿(おきどの)遺跡」出土の陶磁器などを出陳いたします!
「隠岐殿遺跡」は、今年の大河ドラマ「真田丸」のファンには見逃せませんよ。その訳はのちほど…。

特別展「武田二十四将 信玄を支えた家臣たちの姿」 (※終了しました) 

会場:山梨県立博物館 (笛吹市御坂町成田1501-1)
   電話 055-261-2631
URL: http://www.museum.pref.yamanashi.jp/

会期:平成28年3月19日(土)〜5月23日(月)
山梨県博 武田二十四将展ポスター
















隠岐殿遺跡(韮崎市中田町中条)は新府城から北東へ500mくらいの場所に位置しています。
新府共選場の東側です(現在は道路と畑になっています)。
















平成20年から21年にかけて発掘調査が行われ、斜面を造成した二段のテラスに礎石建物跡が2棟と掘立柱建物1棟が見つかりました。柱や青磁の釉薬に焼けた痕跡があることから、建物が焼失したことが分かりました。
出土品は、輸入陶磁器の破片(青磁の皿、盤、碗、白磁の皿、染付の皿など)、碁石、硯、すり鉢、茶道で用いる天目茶碗や棗(抹茶を入れる器)などが見つかっています。
中には、破片の湾曲から直径が40〜50cmにもなると推定される大皿もあります。

隠岐殿遺跡出土品の一例
隠岐殿出土品の一例













輸入陶磁器の染付の破片のうち新しいものは戦国時代末の物です。しかし、それよりも古い時代の青磁の破片も含まれており、それは当時高級品(権威の象徴)とされていた物です。いわば戦国時代において「アンティークの品」として尊ばれていた器ということですね。
また、建物に建て直した痕跡がないことから、建物と出土品の時代は一致すると考えられます。江戸時代の遺物は見つかっていません。

以上のことから、隠岐殿遺跡は戦国時代末の身分の高い人物(権威の象徴である唐渡りのアンティークの青磁を所有し、茶道をたしなむ)の屋敷跡であり、出土品もその時に屋敷の中で使われていた家財道具だと考えることが出来ます。

誰の屋敷なのか?
そして、これは勝頼が計画した「新府城下町」の一つとして整備された家臣屋敷なのか?
残念ながら、そこまで判断できる材料は見つかっていません。

ただし、遺跡名の元になったように、かつてこの場所は「隠岐殿」という字名で呼ばれていました。
そして、遺跡と一致する時期に「隠岐守」と名乗った武田家臣がいるのです。

それは「加津野昌春」。すなわち「真田信尹(のぶただ)」 (1547-1632)です。

真田安房守昌幸の弟で、「真田丸」の主人公である信繁から見ると叔父に当たります。『甲陽軍鑑』によると武田家には鑓奉行(騎馬十五騎、足軽十人)として仕えていました。
天正5年(1577)、武田家御一門の加津野家を相続して武田親類衆の家格となり、加津野一(市)右衛門尉昌春と名乗っていました。
天正8年(1580)の文書では「隠岐守」と名乗ったことが確認されています。
武田家滅亡後に真田姓に復し、名を信尹に改めたと考えられています。

ドラマでは、兄・昌幸の意を汲んで様々な武将との交渉役をつとめ、沈着かつ豪胆に兄を支える“切れ者”として描かれています。「叔父上のようになりたい!」と信繁に憧れのまなざしで見られ、徳川家康には「真田信尹、家臣に欲しいのぅ…」と言わしめたあの人です。
先日放送された海津城代の春日信達を調略する回では、冷徹な手段さえ辞さない姿で強烈な印象を残しましたね。

隠岐殿遺跡が「隠岐守」すなわち真田信尹の屋敷跡と確定できる証拠は、遺物の面でも文献の面でも残念ながらありません。
しかし、地元で伝えられてきた「隠岐殿」という地名の源が、「隠岐守の屋敷」にあるとしたら…?
遠い記憶を伝えるかすかな痕跡であるなら…?
そう考えるとワクワクしませんか?!

というわけで、大河ドラマファン、真田ファンの皆さま。
山梨県立博物館の「武田二十四将」展で隠岐殿遺跡の出土品をぜひご覧ください。

そして!4月上旬、桃の花が咲く時期になったらぜひ新府へ行ってみてください!
隠岐殿遺跡のすぐ近く、新府共選所のあたりはまさに「桃源郷」です。
左の丘が新府城跡
 
2016/03/11(金) 14:00:17

「3月11日」のこと

今日平成28年3月11日は、東日本大震災から5年目の節目に当たります。
あの日の恐ろしさ、驚愕、不安、悲しみ…決して忘れてはならぬものです。
助け合うことで生まれる力、助け合うことでしか生まれない力、そのことも忘れてはならぬと思います。

災害を防いだり、被害を軽減する(減災)のヒントは、自分が住んでいる地域の地形や自然環境を知ることの中にもあると思います。
地域の歴史に目を向けることは、同時に、地域の自然環境に目を向けることでもあります。
「歴史を学ぶことは、過去から学び、未来に生かすこと」。
よく言われることではありますが、この機会に改めて実践したいものです。

また、震災で被災された方々が、地域のお祭りや神社仏閣を心の拠り所としたことを、度々報道で知りました。
少子高齢化で、地域のお祭りを継続していくのはどこも困難な時代です。
しかし、コミュニティとそこにいる人たちの心が危機に瀕したとき、普段は役に立たないように見える「文化」が支えになるのだと教えてもらったように思います。
その意味でも、地域に伝わる行事や風習に関心を持ち、伝えて行くことの重要性を感じました。

山神社(穂坂町上今井)の春祭りと、見学で訪れた地元の小学生たち
山神社の春祭りと、見学する小学生















ところで、3月11日は、他にもメモリアルな日にちとなっています。

韮崎にとって一つ目は、新府城の主・武田勝頼の命日であることです。
すなわち、戦国大名武田家が滅亡した日になります。

天正10年(1582)3月3日、信濃から迫る織田軍の勢いを前に、勝頼は新府城に火を放って落ち延びる決断をします。
そして大月の岩殿城を目指すのですが、志半ばにして織田軍に追い詰められ、3月11日に田野(いまの甲州市大和町)で自害して果てました。
(※勝頼が織田軍に攻められて新府城で自害したと思っておられる方が時々いらっしゃいますが、そうではありません)

写真は、新府城の本丸跡に江戸時代に建てられた勝頼公霊社です。
勝頼公霊社















本丸跡には新府城の推定復元図や解説看板もありますので、見学のご参考になさってください。
新府城復元図 本丸跡の看板















新府城解説文 本丸跡の看板















韮崎にとって二つ目は、明治〜大正時代に活躍した実業家・小野金六(1852-1923) の命日であることです。
小野金六は、今の韮崎市本町通りにあった造り酒屋「富屋」に生まれ、JR身延線の元となった私鉄「富士身延鉄道」の初代社長を務めました(富士身延鉄道は昭和3年に全線開業)。
富士製紙社長や東京電燈取締役なども歴任し、いわゆる「甲州財閥」の一人として名を馳せたほか、富士北麓地域の観光開発の先駆けとなる事業計画にも携わりました。

小野金六の胸像(蔵座敷内に展示)
小野金六胸像
















地元の教育にも貢献し、韮崎小学校の講堂を建設する資金として三万円(いまの金額で数億円)を寄付しています。
大正12年3月11日に亡くなりました。

富屋の跡地は現在、山梨県民信用組合韮崎支店となっていますが、富家の蔵座敷が民俗資料館に移築保存されています。
甲州街道韮崎宿の豪商として200年以上続いた富屋の暮らしをつたえる貴重な建物です。
桜の蔵座敷

























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先日、韮崎北西小の皆さんからのお手紙の記事を載せましたが、関連して思い出したことがあります。
それは、神山小学校の校歌のことです。

大村先生が通われた神山小学校の跡地は、現在は神山公民館と「武田の里駐車場」となっています。
武田八幡宮の二の鳥居(県指定文化財)のすぐ隣にあります。武田八幡宮のご見学や神山地区の散策の際にご利用下さい。
旧神山小学校















注目して頂きたいのは、駐車場の一角に建つ「神山小学校校歌」の石碑です。
校歌石碑全体
















何が注目って、校歌の最後の部分!!
校歌石碑部分














「科学を究め 業とげて 高き文化の国樹てん」

この校歌は大村先生が卒業された二年後に作られたそうですが、先生の生き方と功績を予言しているとしか思えません。
研究者として科学を究めたことはもちろん、その科学をもって世界中の人の命を救う「業(わざ)」をとげ、美術を愛して文化を振興する…。
科学だけでなく、三拍子すべてそろって符合するところに運命!?を感じてしまいました。

大村美術館から旧神山小学校跡までは、歩いて10分もかかりません。
大村先生の通学路だった道をたどってみてください。

なお、今月は韮崎市立図書館にて、閉校になった小学校に関する図書の特設コーナーが設けられています。
神山・清哲・円野・旧甘利・大草・龍岡・藤井・中田・穴山の各小学校に関する本が集められていますので、図書館に足を運んでみてはいかがでしょうか。
 
先月に社会科見学に来てくださった韮崎北西小学校3年生のみなさんからお礼のお手紙をいただきました。ありがとうございます!
きれいなピンクの画用紙に寄せ書きを作ってくださり、これは飾らなければもったいない^^

ということで、大村智先生のポスターのお隣に掲示しました。
お手紙掲示しました















なぜって?韮崎北西小学校のみなさんは、大村先生の母校の後輩にあたるのです。
韮崎北西小は、神山小学校・清哲小学校・円野小学校の3つが統合して昭和53年に開校しました。
大村智先生は、神山小学校の卒業生なのです。
お手紙掲示しました2















「昔のくらしの大変さが分かった」「土器のしおりを本にはさんでいます」…うれしい感想をありがとうございます。
また来年お待ちしています!
 
3月3日の桃の節供の日、うららかに晴れた暖かい日差しのもと可愛いお客さんたちがにらみんに来てくれました。
韮崎市子育て支援センターの親子おさんぽ会(にら☆歩歩くらぶ)です^^

未就学児のお子さんとお母さん、支援センターのスタッフやボランティアの方々と楽しい時間を過ごしました。
昨年はじめてお散歩会で来て下さったのですが、ご好評をいただいたそうで♪今年も開催してくださいました。
ありがとうございます!

まずはおっきいにらみんが後田遺跡の仮面土偶「ウーラ」や石之坪遺跡の美人土偶「ミス石之坪」をご紹介。
赤ちゃんが無事に生まれてほしい、元気に育ってほしいという願いは縄文人も私たちも一緒!という熱いメッセージを伝えると、お母さん方はとても共感されていました。
親子おさんぽ ウーラを見ます
















明治時代の美しいおひなさまや珍しい押絵雛、端午の節供のおかぶとも見て頂きました。
押絵雛やおかぶとは初めてご覧になる方も多く、驚かれていました。

桃の節供にふさわしく、春本番のような好天です。お外の見学もレッツゴー!
親子おさんぽ お外も見ます















蔵座敷の中はおひなさまでいっぱい。お子さんたち大興奮です。
親子おさんぽ おひなさまに大喜び
















そして、スペシャル企画。「おひなさまの前でウーラと記念撮影!」。
ウーラのレプリカを持って、記念撮影をしていただきました。
土偶×おひなさま×蔵座敷というレアすぎる組み合わせです。パワーがもらえること間違いなし!
親子おさんぽ ウーラと撮影会














可愛いお子さんに抱かれてウーラもうれしそうに見えます^^
親子おさんぽ ウーラをもって














もちろん花子の家にも遊びに行きました。
親子おさんぽ 花子の家も見ます















昔ばなしの世界に入ったみたい!見ているこちらが癒されました。
親子おさんぽ 縁側にて














お散歩会の様子は「韮崎子育て応援団 にら☆ぐるみん」さんのブログにも紹介されています。↓
http://niragurumin2014.jp/2016/03/03/33-%e3%81%ab%e3%82%89%e2%98%86%e6%ad%a9%e6%ad%a9%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%b6%e3%80%80%e3%80%80%e9%9f%ae%e5%b4%8e%e5%b8%82%e6%b0%91%e4%bf%97%e8%b3%87%e6%96%99%e9%a4%a8/

ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。ぜひ来年もおいでください♪