韮崎市民俗資料館ブログ〜「にらみん」のお散歩日記〜
「にらみん」は韮崎市民俗資料館のニックネームです。伝えたいな~、このまちのいろんなトコやコト♪
じめじめした日が続いて、いよいよ梅雨本番という感じですね。
さて、先日、石之坪遺跡の土偶(にらみんの玄関でかかしになっている彼女です)について、正面以外からの写真をご覧になりたいというリクエストを頂きました。
確かに、実測図だけでは中々イメージがつかみにくい所もありますものね…

そこで、この機会に、(展示ケースに入った状態ですが)色々な角度から撮影した写真をご紹介します。
フォルム、テクスチュア、文様、そのいずれの美しさもお伝え出来る一助になれば幸いです。

なお、以下の文中での左右の表記は、「土偶から見た右・左」になります。
(観察者から向かって右・左ではありません)

まずは正面から!
土偶の目線と同じ高さで撮ったものです。
石之坪土偶 正面(ブログ用)















これも正面からですが、やや上から見たところです。
先ほどとは顔の印象が違うことと思います。
この土偶は、見る高さや角度によって驚くほど顔の印象が変わるのが魅力です。
石之坪土偶 正面やや上から(ブログ用)













右斜め前です。
石之坪土偶 右斜め前(ブログ用)














右側面です。
石之坪土偶 右側面(ブログ用)















右斜め後ろです。
石之坪土偶 右斜め後ろから(ブログ用)















左側面です。
石之坪土偶 左側面(ブログ用)














左側面を、やや上から見下ろしたところです。
石之坪土偶 左上から(ブログ用)















左斜め後ろです。
石之坪土偶 左斜め後ろ(ブログ用)















真上から見たところです。
石之坪土偶 真上から(ブログ用)















真上よりやや後ろから見たところです。(後頭部ということになります)
石之坪土偶 後頭部(ブログ用)















左斜め上から見たところです。
石之坪土偶 左斜め上から(ブログ用)















にらみんの好きな角度はこれです。
ぽかんとお口を開けて、気持ちよくお昼寝してるみたい?とてもかわいいです。
お昼寝してるみたい?(ブログ用)














正面の上から見下ろすと、宇宙人みたい…
宇宙人みたい?(ブログ用)















見る角度や高さによって、優しいようにも厳しいようにも、可愛いようにも神秘的なようにも…さまざまに見えます。
物理的な角度だけでなく、見る人の心情によっても、その表情はさまざまに映ることと思います。

石之坪遺跡の土偶には、縄文人のどんな気持ちが込められているのでしょう?
答えを知る術はないのかもしれません。
でも、それを探り、思いを馳せる喜びをこの土偶は私たちに与え続けてくれています。
そう思うと、この土偶に感謝の気持ちがわいてきます。

もしかすると、「彼女」にしてみたら土の中で静かに眠っていたかったのかもしれません。
その逆に、こんな風に全国の人に見てもらって「美人だ!」と褒めてもらえてうれしいかもしれません。
そのことにも答えはないわけですが…「彼女」に対してありがとう、と話しかけたくなります。
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最近、花子の生家ロケセットの周りでみんなの注目を集めている物があります。

↓コレです。何だかお分かりですか?
これは何でしょう?














でも、上の写真の状態では正しい向きではありません。
使うときは、金属の刃先が下に来るようにします。
刃先が土に刺さるようにするわけです。

↓使うときの向きはこうです。
正しい向きはこう












↓前から見るとこう。金属部分が土に刺さるように立てます。
馬側から見ると














こうなればピンとくる方が多いでしょう。
この道具は「犂(すき)」です。
馬や牛に縄で結び付けて引かせ、田んぼや畑の土を耕す道具です。
現代で言うとトラクター(の刃の部分)でしょうか。

なぜ犂が注目を集めているかと言うと、一か月ほど前のテレビ番組で、このような犂を馬につけて実際に馬耕をしてみる、という都留市のNPOの取り組みが放映されたためです。
(山梨ローカルの番組でしたので、他県の方はご覧になれなかったと思いますが…)
その番組をご覧になった方が結構多く、「あぁ、こないだやってたアレね!」という話題になるのです。

かくいうにらみんも拝見していた一人で、「実際に使うとあぁなるのかっ!」と大いに勉強させて頂きました(松山犂を使う様子を映像で見たのは初めてだったので…)。

写真の犂は「松山犂」と呼ばれるものです(先ほどの番組の中でも、「松山犂じゃんけ!懐かしいなあ」と言われていました)
明治34年、現在の長野県小県郡長和町大門に生まれた松山原造氏が特許を取得した犂であるため、そう呼ばれています。
正確に言うと、「松山式単ざん双用犂(そうようり)」という形式になります。
「単ざん」というのは、土を掘り起こす金属の刃が一枚という意味で、「双用犂」というのは刃の向きを右にも左にも変えられる、という意味です。
松山犂は昭和30年代くらいまで用いられていたので、ご年配の方には懐かしく思い出される方もいらっしゃるでしょう。

写真の犂にも、薄れてはいますが「松山犂製作所」の焼印が押されています。

↓「単三ざん双用犂」「松山原造発明」「大屋駅前 松山犂製作所」
 などの文字が見えます
犂の焼印
















大屋駅は、明治29年に開業した長野県上田市の信越線大屋駅のことです(現在はしなの鉄道)。
松山犂製作所はそこにあったことが分かりますが、現在は松山記念館として犂の歴史を展示する資料館になっています。

松山犂の使い方ですが、犂を牛馬に結び付けて人間はその後ろに立ちます。
人は、犂に付いているハンドルのような横棒の部分を持ち、刃先を土にぐっと差し入れながら、牛馬について歩きます。
刃先をどれくらい深く土に入れるかの調節には熟練の勘が必要になります。

↓後ろからみたところです
後ろから見ると














↓横棒の部分を持ちます
持ち手













さらによく見ると、縦の柄の裏側に金属製の細い棒が付いていますね。
これは、犂の刃先を右・左に変えるレバーです。
真ん中にレバーが















↓レバーを右に倒すと、刃先が右に傾きます
レバーを右に動かすと














↓前から見ると、刃先の向きが変わったことが分かります
前から見ると















刃先の向きが変えられなければ、牛馬を往復させたときに土を反転させる方向が左右逆になってしまい、堀り残す部分が出来てしまいます。
往復で常に一定の方向に土を掘り起こすには、行きと帰りで刃の向きを変える必要があります。
刃先の向きを変えられる「双用犂」は画期的で合理的な発明でした。

花子の生家ロケセットにいらっしゃった際は、どうぞ犂も探してみてください!

 
さらに縄文王国の仲間からもう1館。
笛吹市の山梨県立博物館で開催中の「鵜飼〜甲斐の川漁と鵜飼をめぐる伝説〜」展をご紹介します。
会期は、平成27年5月30日(土)〜7月6日(月)となっています。

↓詳しくは山梨県立博物館HPへ↓
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/
山梨県立博物館 鵜飼展














魚を捕える鵜の姿を描いた全国で初めての土器が確認されたということで、先日新聞やテレビでも報道されましたが、その土器(甲府市の外中代遺跡出土・平安時代)も展示されています。
韮崎市からの資料の貸出は行っていないのですが、韮崎の川に関わる面白いお話を聞くことが出来たので、ご紹介したいと思います。

「鵜飼」と言えば、皆さんご存知のとおり「鵜」という鳥を操ってアユなどの川魚を捕る漁法のことです。おそらく最も有名なのは岐阜市の長良川で行われる鵜飼でしょう。「面白うてやがて悲しき鵜飼かな」という松尾芭蕉の俳句に詠まれたことでも広く知られています。

でも、鵜飼について、今書いた以上の知識をお持ちの方はどれくらいいらっしゃるのでしょう!?にらみんの独断と偏見ですが、世間の多くの方が持っている鵜飼についての情報量は、こんなものではないでしょうか…?

そもそも、ここ山梨県で現在も鵜飼が行われていることをご存じですか?
笛吹市石和町で毎年夏に行われています。しかも、石和の鵜飼は、全国的に見てとても貴重な存在なんです。

まず一つの理由は、現在存続している鵜飼のうち、石和が日本の東限に位置しているということです。鵜飼が存続している地域は、先述の岐阜県の他は西日本に多く(京都・和歌山・広島・愛媛・福岡・大分)、山梨より東の地域では、現在鵜飼は行われていません。

もう一つの理由は、石和の鵜飼が舟に乗らない「徒歩(かち)鵜飼」であることです。
古来、鵜飼には舟を使う「舟鵜飼」と、使わない「徒歩鵜飼」とがありました。
鵜飼の一般的なイメージは、舟にかがり火をつるし、鵜匠が舟に乗った状態で鵜を操って漁をする「舟鵜飼」の方だと思います。
ですが、石和では鵜匠は歩いて川の中に入り、立った状態で鵜を操って漁をします。この徒歩鵜飼のスタイルを残しているのは、石和と和歌山県有田市のみなのですが、有田の鵜飼は残念ながら休止中なので、事実上石和だけなのです。

山梨の観光情報に敏感な方なら、毎年石和で鵜飼が行われていることをご存知かもしれませんが、それが現時点で全国唯一の徒歩鵜飼だということまでは中々知られていないのでは?
かく言うにらみん自身が、石和の鵜飼がそんなに貴重なものだとは、(申し訳ありませんが)今まで知りませんでした。
ほとんどの方にとって鵜飼は未知の世界のはず。この展覧会を見ると新しい発見の連続になると思います。(何より、鵜ってこんなかわいいんだ!という発見があります。ペリカン科なんですって)

メディアで報道された外中代遺跡の絵画土器のほか、群馬県保渡田八幡塚古墳の鵜形埴輪(複製)や、日蓮上人が鵜飼の亡霊を鎮める際に法華経を記したと伝わる遠妙寺の「経石」、江戸時代の甲斐の鵜飼の実態を示す古文書など、鵜飼の歴史とともに信仰・伝説の面から見た鵜飼の姿も分かる展示になっています。

だいぶ前置きが長くなりましたが、その展示の中で、江戸時代の甲州街道韮崎宿の名物を記した番付表がパネルで紹介されていました!
以前このブログでも取り上げた『韮崎宿名所名物品々』(文政9年=1826年発行)いう資料です。
残念ながら原資料は残っていませんが、『韮崎町制六十年誌』という本の中に複製が収録されており、内容を知ることができます。
韮崎宿名所名物品々(ブログ用)















その番付表の何が鵜飼と関わるかというと、西(向かって左)の前頭筆頭にランクインしている「釜無川の鮎」です。
添えられた説明文を見てみると、「土用を待って東郡より鵜つかひ来る」と書かれています。
東郡より鵜つかい来る















今まで漠然と「石和の方から鵜飼の人が来てたんだなあ」と考えていたのですが、それ以上具体的には分かりませんでした。今回の鵜飼展を見て、それが国府村(現在の笛吹市春日居町国府)の鵜匠だった可能性が高いことを知ったのです。

韮崎の番付表に「東郡から鵜つかひ来る」とわざわざ書かれているということは、韮崎周辺には鵜匠がいなかったという意味だと解釈されます。
県博の学芸員の方に伺ったところ、生業として鵜飼を営んでいた人の記録は非常に少なく、東郡で確認できたのは江戸時代の国府村の記録のみだそうです。
さらに、国府村の鵜匠数名が今の北杜市武川町宮脇で鵜飼を行ったことを記した文書も展示されていました。つまり、東郡の鵜匠は近隣の川で漁を行うのみならず、北巨摩地域まで出向いて漁をしていたことが確認できるのです。
まさに「東郡より鵜つかひ来る」。韮崎の釜無川で鵜飼を行っていたのは、この国府村の鵜匠である蓋然性が高いと言えます。
一つ謎が解けたというか、韮崎に欠けていたパズルのピースがパチンとはまった感じがして、何だか嬉しくなりました。

鵜飼で捕れた鮎は傷が少なく鮮度が落ちないため、味がすぐれていると言われています。
東郡の鵜匠が捕った釜無川の鮎も、さぞかし味が良かったために番付表の上位にランクインしたのでしょうね。

ちなみに、韮崎の名物番付で西の前頭筆頭「釜無川の鮎」と並び立つのは、東の前頭筆頭「塩川の鰻(うなぎ)」です。
その添え書きを見ると、「下り魚梁又はつり針にてとる」とあります。

魚梁は「やな」と読み、川の中に竹や木で組んだ大きなすのこ状の構造物を設置して、打ちあがった魚を捕る漁法です。やな漁には遡上する魚を捕る「上りやな」と、川を下って来る魚を捕る「下りやな」がありますが、鰻の場合は下りやなです。番付表にもそう書いてありますね。

この魚梁の他、鰻捕りには「もじり」(うなぎうけ、とも言う)という筒状の道具も使われました。細く切った竹を並べて筒状にして、一方の先を閉じたものです。これを川に仕掛けておくのですが、中に鰻や鮎が入ると出られなくなる構造になっています。
うなぎうけ















韮崎市民俗資料館には、この「もじり」や、取れた魚を入れる「魚籠(びく)」が展示してあります。
魚籠の中には、腰に当たる部分に板が付いたものもあります。工夫されていますね。
魚捕りに関する道具の展示














今ではもう東郡から韮崎に鵜匠さんが来ることはありませんが、漁に関する道具を見て、韮崎の川で漁が盛んだった頃や、水陸のネットワークを通じて様々な生業の人たちが韮崎とつながっていたことを想像してもらえたら嬉しいです。
 
山梨県内において、縄文時代の資料を展示する博物館で構成された「縄文王国山梨」というネットワークがあります。にらみんもその仲間のひとり(1館)です。
↓「縄文王国山梨」についてはこちらをご参照ください(山梨県HP内)↓
http://www.pref.yamanashi.jp/kouko-hak/joumonoukoku/top.html

今日は、縄文王国の仲間の館で開催されている展覧会について、韮崎に関連のあるトピックを2つご紹介したいと思います。
(といっても、どちらも縄文時代の展覧会ではないのですけれど…)

甲府市の山梨県立考古博物館では、企画展「甲斐のSAMURAIゆかりの遺跡 城・館・屋敷・墓」展が開催中です。
次の日曜日、6月14日(日)までの会期なのでお急ぎください。
(しかも、この企画展は無料です!)

↓山梨県立考古博物館HP↓
http://www.pref.yamanashi.jp/kouko-hak/

山梨県内では中世から近世にかけての発掘調査が進み、武田氏にかかわる城・館跡や、甲府城とその城下町遺跡などについて、新しい知見がもたらされてきました。
その成果を紹介するとともに、武田氏関連の遺跡だけでなく、在地土豪の屋敷や墓にも焦点をあてて、中世から近世にかけて甲斐で活躍した「サムライ」ゆかりの遺跡を広く紹介する展覧会です。

韮崎市からは、

・武田勝頼が築いた新府城跡から出土した陶磁器類や金属製品
・武田氏の祖先である武田信義の館に関連する施設があったと考えられる武田東畑遺跡から出土したかわらけ(素焼きの器)

が出展されています。
どちらも、民俗資料館では展示していない資料ですので、この機会にご覧頂きたいと思います。
 
北条時之供養塔を見学した後は、堅沢上橋のたもとから沢に沿った道を上ってゆきます。
滝を目指します
















30度を超える暑い日でしたが、沢音と木々の木陰には涼を感じることができました。
堅沢の上流へ
















そして歩くこと約40分、大滝に到着!
滝に到着















滝から発散されるしぶきと風とマイナスイオンに、心身ともに生き返るような心地になりました。
落差は3〜4mくらいでしょうか。中々に堂々とした佇まいの滝です!
マイナスイオン!















今回歩いた神山町北宮地地区では、豊かに水をたたえた美しい水田の広がりに目を奪われました。
その田んぼを潤している水系の一つが、この大滝がある堅沢です。

さて、大滝で「涼み」を味わって一休みしたら、来た道を引き返して堅沢上橋まで戻ります。
滝を見た後では、今までの風景が違って見えました。
水をたたえた田んぼ、その恵みの源がどこにあるのか…それを思うと、田んぼが尊く、どこか神聖なものに感じました。
堅沢の恵み















ウォークのゴール地点は、出発点と同じく武田八幡宮二の鳥居です。
そこを目指して最後のひと頑張りなのですが、途中には水に関して面白いポイントがあります。

堅沢上橋から沢沿いの道を歩いて数分下ってゆくと、右手側に満々と水をたたえた水路が現れます。これが徳島堰(釜無川から取水した江戸時代以来のの水路)です。
徳島堰を右手に見ながらさらに歩いてゆくと、堰がぐっとカーブして90度曲がる地点があります。
その直前、よーく見ると「水路が立体交差」しているポイントがあります。
徳島堰を越える水路















徳島堰をまたぐようにコンクリートの細い水路が作られているのです。
これはどういうことなのでしょう?
水路の立体交差














堰をまたいで流れているのは、堅沢から取水した水です。
この地域の田んぼの中には、堅沢からの水を使っているものと、徳島堰からの水を使っているものとがあります。利用している水の源が違う(利水権が違う)ので、わざわざ水路を分けているのですね。

米作りにとって水は決して欠かせないもの、まさに生命線です。水を使う権利というものは、今も昔も厳格に管理されています。こんなところにも、水の尊さを感じされられました。

水路の立体交差に感心した後は、徳島堰に沿って歩いて二の鳥居を目指します。
よく見ると、ほら…左手の田んぼの中に葉桜になった王仁塚の桜が!
しかも、田んぼの水面に映って「さかさ王仁塚の桜」が見えます!
さかさ王仁塚の桜!













王仁塚の桜は全国的に有名ですが、その魅力は花の咲く時期だけにとどまりません。
今、水田に水が張られている時だけに見られる「さかさ王仁塚の桜」。
ピンク色のあでやかな姿も良いですが、たくましく葉を茂らせた姿の二重写しには生命力があふれています。パワースポットと呼んでもいいと思います。

王仁塚の右手に目を移せば、富士山も見えますよ!
さかさ富士!?














さらに足元に目を移せば、おたまじゃくしもいたっ!
おたまじゃくしも

















ゴール直前まで、水の恵みとそれに育まれた命(米、桜、おたまじゃくし、そして私たち自身)の大切さを感じられるウォークとなりました。

9時にスタートしたウォークは、ぴったり正午!韮崎名物(?)お昼のメロディが流れる中でお開きとなりました。
暑い中ご参加くださった皆様、本当にお疲れ様でした。

次回のふるさと歴史再発見ウォークは、7月下旬に祖母石地区を散策する予定です。
詳しくは「広報にらさき」7月号でお知らせいたします。
(※ふるさと歴史再発見ウォークの申込み窓口は韮崎中央公民館となっております)
 
玉保寺跡の墓地を見た後、そのまま道なりに北に歩いていきます。
左手側は山、右手側は水田が広がる景観です。水面が強い日差しを反射してきらめいています。
お田植えがさかんでした
















そんな風景を眺めながら数分歩いて行くと、堅沢(たつさわ)という川に突き当たりました。
この川が、今眺めてきたこの地域の水田を潤しています。
本日のメインイベント?は、その水の恵みの源を体感するべく堅沢をさかのぼって滝を見に行くことなのです!

が、まずはその前に。堅沢川を渡った先に謎に満ちた史跡があるので、そちらを訪ねてみましょう!まさに知られざるポイントです。

堅沢に架かる「堅沢上橋」を渡って、清哲町水上地区に入ります。
丸太が支えている!
















幅の狭い小さな橋ですが、水面からの高さはなかなかにあります。
そしてよく見ると、橋を支えている部材に丸太が使われていますよ!

橋を渡って道なりに数分歩いた突き当たりに防火水槽があります。
その防火水槽の上、道路から少し見上げるような場所に古いお石塔が立ち並んでいます。
蒲原城主の供養塔
















16世紀(室町時代)の石塔群ですが、その中に「善福寺殿衝天良月大居士」と刻まれた供養塔があります。
北条時之供養塔
















「善福寺殿」とは、静岡にあった蒲原城というお城の城主であった北条新三郎時之という戦国武将のことです。
永禄12年(1569)、武田信玄の命によって出陣した武田勝頼を総大将とする軍に攻められ、蒲原城は落城しました。北条時之は真田幸隆・信綱親子の軍勢によって討ち取られたと伝えられています。
つまり武田家の敵であった武将の供養塔が、武田家発祥の地であり、武田家の氏神たる武田八幡宮からほど近い場所にある訳です。とても不思議な感じがします。
残念ながら、その理由・歴史的経緯は不明だそうですが、何気ない道端の石塔の中に歴史の奇妙な巡りあわせやミステリーが潜んでいることを実感できました。

まさに「ふるさと歴史再発見」を肌で感じたところで、先ほどの堅沢上橋へ戻ります。
そしてここから、堅沢に沿って上流へとさかのぼってゆき、「大滝」と呼ばれる滝を目指してゆきます。
そこはマイナスイオンと涼しさがあふれ出ているはず!
がんばって上って行きます。
→次回③へつづく。