韮崎市民俗資料館ブログ〜「にらみん」のお散歩日記〜
「にらみん」は韮崎市民俗資料館のニックネームです。伝えたいな~、このまちのいろんなトコやコト♪
年内の開館は本日12月28日(日)をもって終了いたしました。

本年は期待を上回る多くの方々のご来館を賜り、韮崎市民俗資料館にとって忘れえぬ年となりました。
私どもにとっては、文字通り、「歴史に刻まれる」一年でした。

単に入館者数という数値だけではなく、多くの皆様とお目にかかってお話しさせて頂き、ご縁を結ぶことができたのが何よりの喜びです。
資料館にとって、かけがえのない財産となりました。
ご来館下さいましたすべての皆様に感謝を申し上げます。

民俗資料館は、12月29日(月)から31日(水)まで休館となります。

※休館中は民俗資料館および蔵座敷内部の見学はできかねます。
 花子の生家ロケセットは休館中もごらんになれます。(構造上、建物の中には入れません)

なお、次の開館は、年が明けて平成27年1月1日(木)からです。

新年は1日、2日、3日とも特別開館いたします。
(午前10時から午後3時まで)

来年も皆様のご来館をお待ちしております。
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楽しいクリスマスが終わり、次はいよいよお正月!
大掃除に励んでいる方も多いのではないでしょうか?

さて、これからの年末年始の休館日を再びお知らせいたします。

何と!新年1月1日〜3日まで、特別開館することが決まりました

お正月三が日は、午前10時〜午後3時まで開館いたします

これまでは例年通り三が日を休館とする予定でしたが、急きょ特別開館が決定いたしましたので、お知らせいたします。
なお、1月4日からは、通常通り午前9時〜午後4時30分までとなります。

年末にはNHKで「花子とアン」のダイジェストが放送されますし、紅白歌合戦の中では花アンの特別篇が放送されるとか!
それを見ればきっと、花子の世界をまた体験したくなるはず…。

御親戚やお友達が集まるお正月、皆様お誘い合わせてにらみんにおいで下さい。

【平成26年12月・平成27年1月の休館予定】

年末年始の休館は、12月29日(月)〜12月31日(水) となります。
また、1月は祝日の関係で、月曜以外の日が振替休館になる週がございます。
ご注意下さいますようお願いいたします。

○平成26年月12月の休館予定

12月29日(月) 年末休館
   30日(火) 年末休館
   31日(水) 年末休館


○平成27年月1月の休館予定

 1月1日(木) 特別開館(10時〜15時)
   2日(金) 特別開館(10時〜15時)
   3日(土) 特別開館(10時〜15時)

   5日(月) 
   8日(木) 午後1時まで休館 
   13日(火) 祝日にともなう振替休館
   14日(水) 祝日にともなう振替休館

   15日(木) 午後1時まで休館
   19日(月)
   22日(木) 午後1時まで休館
   26日(月) 
   29日(木) 午後1時まで休館

1月12日(月・成人の日)は臨時開館いたします。

休館日でも、花子の生家ロケセットはごらんになれます。

(民俗資料館と蔵座敷の内部は、休館日はごらんになれません)

何卒ご了承下さいますようお願い申し上げます。
 
2014/12/27(土) 13:27:02

案内看板が新しくなりました

韮崎市民俗資料館への案内看板(立て看板)のデザインが変わりました!

これまでは白い立て看板でしたが
連休中の蔵座敷案内看板


















新しいものはピンクになりました♪
ロケ地案内の新しい看板















「民俗資料館 ・ 花子とアン ロケ地」

と書いてあります。
設置場所はこれまでと同じです。
県道17号線(青坂バイパス・七里岩ライン)から資料館へ曲がる十字路を起点として、そこから資料館までの間の3か所に立ててあります。

かわいいピンク色と女学生のイラストが目印です。
 
2014/12/20(土) 15:06:43

「12月24日」のおはなし

もうすぐ、みなさんお待ちかねのクリスマスですね。
サンタさんが来るのは12月24日のイブの夜。
お子さんはもちろん、大人の方もソワソワしていることと思います。

実は、この韮崎という地の歴史にとって「12月24日」は重要な日だってご存じでしたか?

戦国武将・武田勝頼が新府城に入城した日なのです。
天正9年(1581)年12月24日に、甲府のつつじが崎館から新府城へ居を移したと考えられています。
(※旧暦なので、今の暦に直すと1月の末ごろに当たりますが…)

つまり新居へお引越しをした訳ですが、その移動のありさまは、金銀をちりばめた輿や華麗な馬の鞍を用い、騎馬武者を引き連れた立派なもので、見物人が群をなしたと記されています。

新府城は、信玄が住んでいたつつじが崎の館に代わり、後継者の勝頼が韮崎に新たに築いた城です。
七里岩の上に築かれ、西側は約130mもの切り立った崖になっていて防御にすぐれています。
「新府」とは「新しい府中(政治の中心地)」のこと。広大な領国統治の新たな拠点となるべき重要な城でした。

悲運なことに、新府城はわずか68日で灰燼と帰します。
翌天正10年3月3日の早朝、信濃方面から侵攻して来た織田信長・徳川家康軍の勢いを前にした勝頼は、自ら新府城に火を放ち、大月の小山田氏を頼るべく落ち延びて行くのです。
その途中、一行は穂坂町上ノ山の森で振り返り、炎に包まれた我が城を見て涙を流したと伝えられています。
(その場所はいま「涙の森」と呼ばれています)

こうした物語を持つ新府城には、悲しく、寂しいイメージが伴います。
しかし、書物をひもとけば、華麗な新府入城の様子が浮かび上がります。

12月24日はクリスマスイブ。
でも、ほんのちょっとだけ、新府城と勝頼のことも思い出してくれたらうれしいです。

P.S.
ちなみに。
民俗資料館の玄関でご記入をお願いしている入館受付の名簿。
その記入例が、

「 日付:12月24日 氏名:たけだ かつより 」

となっているのは、こういった理由なのです。細かいでしょう!?(笑)
 
食の道具関連コーナーでは、自動ハエ取り機「ハイトリック」と
年貢米に付ける「御城米の旗」が並んで展示されています。

御城米の旗の展示













ハエと年貢米って、別に関係ないのでは…?
と思いますが、実は韮崎の歴史においては大アリなのです。

江戸時代、韮崎宿は年貢米の一大集積地でした。
甲斐国北西部(現在の北杜市に相当する辺り)および信濃国南部の村々(現在の長野県佐久地域や諏訪地域の南部)で生産された米が、年貢米として江戸へ運ぶべく韮崎へ集められたのです。
韮崎は、下諏訪と江戸を結ぶ甲州街道の宿場であり、佐久へつながる佐久往還との分岐点でもあったため、甲斐西北部や信濃南部の米が集まる場所となりました。

そして、韮崎宿に集まった米は陸路(駿信往還)で鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)に運ばれることもあれば、船山の船着き場から釜無川の水運で鰍沢河岸へ運ばれることもありました。
鰍沢は駿河湾へ通じる富士川水運の拠点であり、江戸へ年貢米を大量輸送するための集積地になっていたからです。

(補足ですが…今は、山梨から東京へ物を大量に輸送するには、
中央道やJR中央線を使って甲府〜大月〜八王子へと行くのが最短というイメージですが、江戸時代の年貢米はそうではありませんでした。
陸路ではなく、富士川を舟で下って駿河湾へ運ぶのです。そして清水港から江戸へ舟で大量の米を運ぶのが最も効率的でした。そのため、鰍沢河岸が年貢米の集積地であり輸送拠点になっていたのです。
東京へ物を運ぶのに、一度海を経由する!今ではちょっと思いつかないですよね)

つまり韮崎宿は、甲斐国北西部・信濃国南部と鰍沢河岸とを結びつける、年貢米輸送の重要な中継点になっていたといえます。
では、年貢米を韮崎宿に運んでくるには何が必要だったでしょう?

それは「馬」です。
今でいえば運送用トラックですものね。
ということは、韮崎宿には各地からの米を運ぶ馬がわんさか集まったわけです。

とすれば、必然的に何かが多くなります。
「馬のふん」ですね。

そして、ふんが多くなればハエも多く集まる…!

だから、韮崎宿にはハエが多かったんです!!
その証拠をお見せします。

これは江戸時代後期の文政9年(1826)に発行された
「韮崎宿名所名物品々」という番付表です。
(『韮崎町制六十年誌』に収録されています)

馬宿の蝿がランクイン!













右から二番目に注目すると、「馬宿の蝿」が関脇にランクインしています。
大関たる「裏富士」や「穴観音」に次いでの関脇ですから、
相当な“名物”として認識されていたことが感じられます。
ちょっとショック…?

でも、それこそが韮崎宿の繁栄の証なのです。
番付表には「牛馬の通行多き故なり 馬宿の蝿」とはっきり書かれていますからね。

江戸時代に歌われた民謡「韮崎節」には、
“♪韮崎宿は馬糞宿 雨が降れば馬糞の水で飯を炊く♪”
というフレーズがあります。
まさに番付に載った光景が想像されます。

明治15年(1882)生まれの方の回顧談によると、
朝10時頃には巡査が宿場の交通整理に出て、近隣の村からは
馬ふんを拾う人々がやって来たそうです。
馬ふんは肥料になったため、集めて農家に売ったのです。
先の回顧談によると、それで財をなした人もいるとか…。
 
 
食の道具関連コーナーでは、こんなものも展示しています。

「ハイトリック」!

ハイトリック














こんな道具です。大正時代のもの。
木製の箱と金網が組み合わされています。

何に使うかというと、その名の通り?、
「ハエをとる」ための道具です。
高度なトリックを使って、自動的(!)にハエをとるから「ハイトリック」…。
(有名な製薬会社さん的なネーミングですよねぇ)

どんなトリックが仕掛けられているのでしょう?

まずは、四角い柱みたいな部分に砂糖水や酢を塗ります。

そして、箱の側面のぜんまいを巻きます。
すると、四角柱の部分が回転し始めます。
箱の中にはたくさん歯車が入っていて、ネジを巻くと
柱が回るようになっているのです。
(オルゴールの仕掛けを思い浮かべて頂ければそっくりです)

ハイトリックに近づいたハエがいると、においにつられて
四角柱のローラーにとまります。
すると、「あ〜れ〜!」と(言うか分かりませんが)ローラーに
巻き込まれてしまいます。

巻き込まれたハエは、金網の部分に入るしかありません。
金網は、箱の部分とフックでつないであるだけなので、
取り外して中のハエを捨てることができます。

 ハイトリックの解説













うーん、ぜんまい仕掛けのハイなトリック。
「ハイトリック」は大正8年(1919)に愛知県名古屋市の尾張時計が発売し、
大ヒットしたそうです。
時計のぜんまい技術を生かした商品なんですね。

なかなか有名な機械で、各地の資料館で収蔵されているようです。
以前、NHKの番組で江戸東京博物館の収蔵品が紹介された際、
学芸員の方がおすすめ資料としてハイトリックを見せておられました。
確かに、見た方の誰もが面白い!と喜ぶ資料ですよね。

今回の展示では、年貢米の旗の横にハイトリックが置いてあります。
それには理由があるのですが…次回にお話ししたいと思います。
 
“山梨の名物料理”として多くの人が思い浮かべるのは…
「ほうとう」ですよね。

では、その「ほうとう」を作るのに欠かせなかった道具とは何でしょう?

「お鍋!」
「のし棒!」
「包丁!」

…もちろんそうなんですが、それ以外でお願いします!!
思いつきますか?

「石臼と水車」です。

ほうとうの材料は小麦粉。
自分の手で石臼を回して小麦粉を作るほかに、
川の流れを利用して石臼を動かし、自動的に小麦の実を砕いて
粉にする水車はとても効率的でした。
ほうとうのみならず、おやき、そば、団子など
穀物の粉を使う料理が盛んに作られた背景には、
水車の普及があったのです。

民俗資料館のすぐ裏に移設されている明治6年製の水車には、
米などを精白する搗(つ)き臼だけでなく、実をすりつぶして
製粉ができる石臼も備えられていますよ!
(残念ながら、現在はこの水車は動きません)
水車と石臼(ブログ用)
















石臼など製粉用具の技術が発達したのは戦国時代と
考えられていますが、水車が一般に普及したのは江戸時代です。
製粉業者が個人の水車を作ることもあれば、村人たちが共同で
水車を作って利用することもありました。

天保9年(1838)4月の文書を見ると、岩下村(現在の韮崎市岩下)には
6か所の水車があると記されています。
この年、岩下村の人口は69軒・260人だったので、
ものすごーく単純に考えた場合、11軒で一台の水車を
使っていたことになります。

ちなみに、水車には幕府から税が課せられており(水車運上という)、
たとえば、文政4年(1821)の河原部村(現在の韮崎市本町付近)からは
1140文の水車運上が納められています。
仮に1文を15〜25円と換算すると、17100〜28500円位です。

「ほうとうの陰に水車あり」。
にらみんのおいでの際は、展示室だけでなく裏の水車も
お見逃しなく!