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韮崎と「たなばたさま」 〜穴山出身の詩人・権藤はなよさん〜

にらみん・こぼれ話
07 /05 2017
一年の半分が過ぎ、もうすぐ七夕。
7月から、韮崎市に正午を告げる防災無線のチャイムが「たなばたさま」に変わりました(7月15日までの限定)。

♪笹の葉 さらさら 軒端に揺れる 
 お星さま きらきら 金銀砂子

この歌を聴くと、七月が来たなぁと感じます。
全国の子供から大人まで、多くの人がそうではないでしょうか。

韮崎市の正午に「たなばたさま」のチャイムが流れるのには、大きな理由があります。
この歌の作詞者である権藤はなよさんは、韮崎市穴山町の出身なのです。

JR穴山駅に隣接する穴山さくら公園には、権藤さんの功績を伝えるため「たなばたさま」の詩碑が建っています(平成25年建立)。

たなばたさま歌碑
童謡詩人・童話作家の権藤はなよさんは、明治32年に北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)伊藤窪に生まれました。
実兄の伊藤生更さんは、斎藤茂吉に師事し、アララギ派の歌人として活躍したという文芸の才に秀でたきょうだいでした。

はなよさんは山梨県師範学校を卒業したのち故郷の小学校教員となりますが、文学の夢を追うため上京。出版社に勤めながら詩をつくります。
このあたり、『赤毛のアン』の翻訳者で童話作家の村岡花子さん(甲府市出身)の生き方と重なるものがあるような…。花子さんは、はなよさんより6歳年上。ほぼ同世代です。

はなよさんは、童謡詩人として名高い野口雨情(「七つの子」「赤い靴」などを作詞)に見出され、雑誌に童話や童謡詩を発表して活躍するようになりました。

「たなばたさま」は、当時の文部省からの依頼を受けてはなよさんが作詞し、昭和16年に国定教科書に掲載されました。
戦後、政治も文化も激変する中で、「たなばたさま」は変わらずに愛され、今でも子供たちが口ずさんでいます。
それは、この歌が持つ極限までシンプルでありながら忘れがたい言葉の響きと、そこから想像される美しい夜空、涼しげな風…そういったものが誰の心をも打つからではないでしょうか。

さらさら、きらきら…子供にも歌える簡単な言葉と、「軒端」「金銀砂子」という優雅な古語が織り交ぜられている所に、独特の美しさを感じます。

「のきば」?「すなご」?「ごしき」?子供のころは意味も分からずに歌ったことと思います。私もそうでした。
大人になったとき、ふと「あの歌詞の意味って何だろう」と思って調べて、「そうだったのか」と知る。より一層、歌が作り出す情景が鮮やかになることでしょう。
それはとても粋なことだと思います。
(私が子供の頃、最も分からなかった「砂子」は、金箔や銀箔を粉状に砕いたもののことでした)

韮崎市穴山町には、権藤はなよさんの詩碑が公民館など10カ所に設置されています。

夏目公民館 「ないしょないしょ」の詩碑
ないしょないしょの歌碑

穴山には、雰囲気のある神社や、明治時代のレンガトンネル、道端の道祖神など、お散歩ポイントが色々あります。詩碑とともに巡ってみてはいかがでしょうか。

「穴山さんぽ道マップ」(韮崎市観光協会HPより)
※下記のマップには9カ所の詩碑の記載がありますが、その後福祉施設「穴山の杜(ショートステイ)」に10カ所目が新設されました。
穴山さんぽ道マップ

明治時代のレンガトンネル。
穴山さくら公園の南側にあり、かつてスイッチバックを行っていた土手に開けられたトンネルです。
明治時代のレンガトンネル(スイッチバックの土手)
稲倉穂見神社本殿には、繊細な彫刻と組み物があります。
稲倉穂見神社 本殿
稲倉穂見神社 彫刻と組み物

御名方神社には、神さま(建御名方命)が馬を休めたという「馬蹄石」や、神さまの馬が蹄を滑らせたという「蹄の滑り石」があります。
何気なく見える石にも、実は伝説が秘められていたり…。

御名方神社
御名方神社

馬蹄石
馬蹄石
馬蹄石の由来

蹄の滑り石
蹄の滑り石

今日は節分 ~昭和40年前後の韮崎の節分について~

にらみん・こぼれ話
02 /03 2017
今日は節分ですね。豆まきを楽しみにしている方も多いでしょう。
韮崎では、「穴観音」の名で知られる雲岸寺で、毎年力士の方たちによる豆まきが行われていて親しまれています。

「節分」は季節の変わり目(立春・立夏・立秋・立冬)の前日を意味していましたが、のちに「立春の前日」だけを指して使われるようになりました。
これは、立春が年のはじめだという考えから、特に重要視されたためだと言われています。
そうすると、立春の前日は「大晦日」ということになります。このため、節分を「年取り」と言う地域もあります。
今朝、私の祖母は外を見ながら、「今日は晴れて良いお年取りじゃん。こんねん良いお年取りの日はねえよ」と言っていました。

豆まきをすることは現在でも続いていますが、50年ほど前までの山梨では、ざるやかごを使った節分独特の飾りがされていました。
高い竹ざおの先に、ざるや籠、手すくい(茹でたうどんなどをすくう道具)などの「網目のある道具」をくくりつけ、家の入り口(門口)や庭に立てるというものです。

にらみんの展示室にある「手すくい」
手掬い

網目のある道具を「鬼の目」に見立てて、「鬼の目をぶっつぶせー!」と言いながら豆を投げて厄除け・魔よけをしたそうです。何か、今より楽しそう…。
(中央市の豊富郷土資料館さんでは、この節分飾りを再現した豆まきイベントが行われ、毎年大人気です!)

わが韮崎市内で昭和40年前後に調査された民俗事例を見ると、

◎大草町上条東割 羽根地区(昭和40年調査)

・ヒイラギ、ツガ、モミの葉を燃やし、音を立てながら勝手の七種の道具でかきまわしながら豆を炒った。
・いわしの頭を串に刺し、「カラスの口焼け」「すずめの口焼け」と言いながらよく焼く。それを門に立てる。
・薪に消し炭で線を引いたものを門口に立てる。
・竹竿の先に籠などを付けたものを門口に立てる。
・これからはみな厄除けの行事である。

上条東割羽根地区の調査票に描かれていた図
添えられていた節分の図

◎清哲町折居地区(昭和39年調査)
・庭先に手すくいを棒の先につけて立てる。
・門口にはヒイラギの枝へいわしの頭を付けたものを飾った。
・子どもが鬼の面をかぶり、「青造りさゝ」(原文ママ)に五色シメをつけ、各戸をまわってお札を配る。
 村人は心づけをする(お小遣いをあげる)。
 (節分に子どもたちが鬼の面をかぶって村内を回る風習は、近辺の地区では行われていない、という脚注あり)

◎神山町武田地区(昭和40年調査)

・大正末期までは目籠などを高い竹竿の先につるして外に置いた。
・ヒイラギの小枝にいわしの頭を刺して門口にさした。
・これらの風習はいまは廃れてしまった。
・ツガやモミの葉を焚きながら豆を炒って、鬼は外を唱えながら豆をまく。

昭和54年発行の『韮崎市史』では、

・庭先に手掬い、目篭、籾篩(もみふるい)などを竿の先につけて立て、鬼の目になぞらえる。
・豆は、豆殻やごま殻、桧の葉などを燃やしながら大豆を炒る。
・いわしの頭を枝に刺して蛇・害虫・害鳥の口焼き(にらみん注:害をなす虫や鳥の名を唱え、唾を吐きかけながら焼くこと)をする。
 それにヒイラギを添えて土間口にさして、邪霊の侵入を防ぐ。
・豆まきは、一升枡に入れて神棚に供えてから、主人または長男が明きの方(にらみん注:その年の恵方の方角)から「福は内、鬼は外、鬼のまなこぶっつぶせ」と叫びながら各部屋をまく。
・夕飯は、鬼の歯に模して、少量の大麦を白米に混ぜてつくるふうもある。

と記しています。

どうでしょう?今の節分に受け継がれている点も、無くなっている点もありますよね。

市役所の前の道祖神さん

にらみん・こぼれ話
01 /14 2017
今季最大の寒波がやって来ている今日、道祖神のお祭りやどんど焼きなど小正月のお祭りが行われる地区も多いことと思います。
せっかくのお祭りの日に雪や身を切るような寒さとは…いくら真冬の行事とはいえ厳しいことです。

韮崎市役所のすぐ前の水神町の道祖神さんも、紅白の幕や幟旗で小正月のおめかしをしておりました。
普段は見過ごしてしまうような小さな祠ですが、地域の方の飾りつけで華やかに彩られ、車で通る人たちにも「お!ここに神様が祀られているんだ」と発見を与えてくれます。

市役所前の道祖神

ここの道祖神さんは、祠の両側だけでなく、周辺の道路沿いにも幟が掲げられます(10本以上あるかな?)。
紅白の幟に「行路安全」や「悪疫退散」といった願いが書かれています。
悪疫退散の旗

毎年準備をされる地元の方々に頭の下がる思いです。

今日と明日は「窟観音祭り」 〜峡北に春が来た!〜

にらみん・こぼれ話
03 /20 2016
昨日の朝は雨が本降りでしたが、雨脚が去った後はさわやかな青空となりました。
そして、今日も絶好の行楽日和です!陽射しがあたたかい。

どこへ行こうかな?と考えている皆さま、韮崎でお祭りをやっていますよ!

韮崎駅からほど近い名刹・雲岸寺の「窟(あな)観音祭り」が今日と明日の二日間開催されます(写真は節分会の時のものですみません…)。
雲岸寺

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(以下は韮崎市観光協会HPより)

峡北に春を告げるお祭り「窟観音祭典」が、雲岸寺にて今年も行われます。
●日時
平成28年3月20日(日) 歩行者天国:午前9時~午後9時

3月21日(月) 歩行者天国:午前9時~午後7時

●場所    雲岸寺境内、窟観音御堂(韮崎市中央町11-2)
●行事    3月20日      バンド演奏、マジックショー、福引大会、
                   よさこい踊り、フジサクラ塾(歌と踊り)
                    風船ショー 終日
        3月21日     窟観音本堂にてご祈祷会、稚児行列(町内を徒歩進行)、
                   マジックショー、バンド演奏、よさこい踊り、
                   フジサクラ塾(歌と踊り)、ビンゴ大会、じゃんけん大会
                    風船ショー 終日
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窟観音祭りは毎年春分の日の前後二日間に行われ、「峡北(山梨県西北部)に春を告げるお祭り」として有名です。
その名のとおり、このお祭りの頃には桜がほころび、明らかに風の匂いが春のものに変わっています。
今日、明日はまさにその「春を告げる」感覚を五感すべてで感じられるでしょう。

お祭りのお楽しみ、屋台もたくさん出ますよ^^ 足を運んでみてはいかがでしょうか?

そして、「お祭り」だけでなく、雲岸寺というお寺さんそのものに大変見どころがあります!

雲岸寺は、江戸時代の甲州街道と佐久往還の分岐点(いまの「本町」交差点)の近くに位置する古刹です。
室町時代の寛正五年(1464)に真言宗の道場として開かれ、その後、江戸時代初めの元和元年(1615)に蔵前院二世の天越和尚により曹洞宗に改められました。

境内東側の七里岩の断崖には、弘法大師・空海が自作の観音菩薩像をまつったと伝わるほら穴「窟(いわや・あな)」があり、寺の起源は平安時代までさかのぼるとも言われています。
雲岸寺が通称「窟(あな)観音」と呼ばれているのは、このほら穴があるためです。
弘法大師が観音像を安置したのち、地元の人々がそれを覆うお堂を建てました。岸壁に貼りついてます!
窟観音堂

寺記によると舞台づくりのお堂が作られたのは寛正六年(1465)で、以後江戸、昭和、平成と修理を重ねながら今に至っています。ほら穴に庇(ひさし)とベランダを付けたような形で、まるで断崖にお堂がめり込んでいるようです。
お堂の中は下の写真のようになっています。石畳に朱塗りの柱で立派です。窟観音祭りの日は、年に一度観音像が開扉されます。
窟堂には観音菩薩像だけでなく、江戸時代の寛文八年(1668)に開眼した千体仏もまつられています。
ぎっしりと並んだ小さなお地蔵さんです。この千体の中に自分と目が合うお地蔵さんがいて、見つけられると良いことがあると言われています。
窟堂の中

また、窟の左脇に岸壁を貫通したトンネルがあり、昔から参道として使われていました。
トンネル

トンネルの東側出入口(旧市民会館跡の公園)の様子。韮崎駅から歩いて来た場合、こちら側が近道になります。
穴観音東側参道

門柱の脇には「岩屋観世音」と書かれた享保九年(1724)の石碑が建っており、江戸時代にはすでに参道として使われていたことが分かります。
岩屋観世音

雲岸寺の窟の左脇からつづくトンネルを抜けると、旧市民会館(市民交流センター「ニコリ」の前身)の跡地に出ます。
いまは小さな公園になっていますが、その一角に甲州街道と佐久往還の道標が保存されています。
この道標は、もとは韮崎宿の甲州街道と佐久往還の分岐点(いまの「本町」交差点)に立っていたものです。

右   信州さく郡のみち
左   信州すわ上みち
側面  元禄八乙亥年八月
旧市民会館道標

この道標がもと立っていた場所です。今の「本町」交差点にあたります。
本町交差点

江戸時代、交差点の北側は角島こと百瀬家、南側は大島屋こと保坂家という韮崎宿屈指の商家でした。
昭和四十七年(1972)の札幌冬季オリンピックの際は、東京からやって来た聖火をここで二つに分け、一つは佐久往還を通って佐久へ、もう一つは甲州街道を通って諏訪を目指し、以後二つのルートで札幌を目指していったという逸話があります。

窟観音のお祭りにおいでの際は、ぜひ周りも散策して、歴史の痕跡を探してくださいね。

神山小学校校歌 おどろきの「予言」

にらみん・こぼれ話
03 /09 2016
先日、韮崎北西小の皆さんからのお手紙の記事を載せましたが、関連して思い出したことがあります。
それは、神山小学校の校歌のことです。

大村先生が通われた神山小学校の跡地は、現在は神山公民館と「武田の里駐車場」となっています。
武田八幡宮の二の鳥居(県指定文化財)のすぐ隣にあります。武田八幡宮のご見学や神山地区の散策の際にご利用下さい。
旧神山小学校















注目して頂きたいのは、駐車場の一角に建つ「神山小学校校歌」の石碑です。
校歌石碑全体
















何が注目って、校歌の最後の部分!!
校歌石碑部分














「科学を究め 業とげて 高き文化の国樹てん」

この校歌は大村先生が卒業された二年後に作られたそうですが、先生の生き方と功績を予言しているとしか思えません。
研究者として科学を究めたことはもちろん、その科学をもって世界中の人の命を救う「業(わざ)」をとげ、美術を愛して文化を振興する…。
科学だけでなく、三拍子すべてそろって符合するところに運命!?を感じてしまいました。

大村美術館から旧神山小学校跡までは、歩いて10分もかかりません。
大村先生の通学路だった道をたどってみてください。

なお、今月は韮崎市立図書館にて、閉校になった小学校に関する図書の特設コーナーが設けられています。
神山・清哲・円野・旧甘利・大草・龍岡・藤井・中田・穴山の各小学校に関する本が集められていますので、図書館に足を運んでみてはいかがでしょうか。