韮崎市民俗資料館ブログ〜「にらみん」のお散歩日記〜
「にらみん」は韮崎市民俗資料館のニックネームです。伝えたいな~、このまちのいろんなトコやコト♪
11月21日(月)午後3時50分から、YBSテレビ「てててtv」にて新府城跡が紹介されます。

山梨放送 YBSテレビ
 
「てててtv」 “やまなし秋の歴史散歩”

11月21日(月) 午後3時50分〜4時53分


大坂冬の陣に際して真田幸村(信繁)が築いた出城=“真田丸”の原点とも言われる「丸馬出し」を探訪します。
「丸馬出し」とは、城の出入口の前に築かれた半円形の土塁のことで、その下には土塁に沿う形の空堀「三日月堀」を伴います。

ててて












丸馬出しと三日月堀は武田氏の城郭に見られる特徴的な築城法です。
兵や馬の出入りを外から見えにくくするとともに、三日月堀で正面からの敵の侵入を防ぎ、左右からやってくる敵に対して半円形の土塁から迎撃する仕組みです。

丸馬出しと三日月堀を知るうえで欠かせない場所として、「てててtv」では和泉アナウンサーが甲府市の武田神社と韮崎市の新府城跡を訪ねます。

意外と知られていないかもしれませんが、武田神社=武田信玄が住んでいたつつじが崎の館の正面入り口(大手口)は東側なのです。(今の武田神社の正面入り口は南側ですが)
そして、武田神社の東側からは三日月堀の遺構が発掘されています。館の正面入り口を守る防御施設です。
説明看板もしっかり整備されていますので、武田神社に行った際はぜひお見逃しなく(参道の途中を右に曲がると三日月堀の跡へ行けます)。

一方、新府城跡では、城の南側に位置した大手口の前に、現在でも丸馬出しと三日月堀が残っています。

藤武神社の急な石段よりも南側(石段に向かって左側の方)に、新府城の本丸跡へのぼる道があります。
入り口には車止めの鎖がしてあり、車は管理や工事用の許可車両しか通行できませんが、人が歩いて通ることは出来ます。
下のマップの赤い丸で囲ったところが車止めの位置です。
車止めの位置












車止めの脇から徒歩で入り、のぼってしばらくすると、左手に「南大手門」という看板がありますが、ここからは丸馬出しに行くことは出来ません。

「南大手門」の看板を通り過ぎ、さらにのぼっていくと、右手に「東三の丸」という看板があります。
「東三の丸」の看板を過ぎたすぐ左側のところが平らに開けており、左右に土塁があります。
この土塁が大手桝形(城の正面入り口)の土塁です。
大手桝形を通り抜けた先に丸馬出しがあるので、まずは大手桝形に向かいましょう。

東三の丸の看板を過ぎて左側











「東三の丸」の看板を過ぎたすぐ左手は、こんな風に平らに開けています。
左右に見える小高い部分が大手桝形の内側の土塁です。
土塁の切れ目から「桝形」という四角い空間に入り、そこを通り抜けると「丸馬出し」があります。
(城の中から外に出る道順をたどっていると思って下さい)
大手桝形から丸馬出しへ













大手桝形を抜けると視界が開け、足元を見ると、自分が半円形の土手の上に立っていることが分かるはずです。
これが「丸馬出し」です。
弧を描く丸馬出し












丸馬出しから下を見ると、弧を描く土塁に沿ってくぼみがあるのが分かります。
(下を見ようとして、斜面に落ちないようにくれぐれもお気を付けください!)
このくぼみが三日月堀です。
丸馬出しの下には三日月堀












丸馬出しの下には三日月堀2














丸馬出しと三日月堀の高低差は20m以上あります。
下の写真は、丸馬出しから下りて三日月堀と同じ高さに立って見たところです。
三日月堀 西側から












三日月堀 東側から
























新府城の解説パンフレット「親子で歩く新府城」は下記リンクからダウンロードできますのでご参照ください。
http://www.city.nirasaki.lg.jp/docs/2016021800022/
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前回までは、乾門→帯郭→丸馬出しまでの行程をたどってきました。
ここからは、いよいよ城の正面入り口である大手から本丸を目指します。

新府城跡お散歩マップと解説パンフレット「親子で歩く新府城」は下記からダウンロードできます。
http://niramin01.blog43.fc2.com/blog-entry-515.html

今回のウォークで歩いたコース。青が本丸までの往路、赤が本丸からの復路です。
お散歩マップでのルート













想定復元図で往路を示すとこんな感じ。
想定復元図でのルート













さて、前回で到達した丸馬出しから後ろを振り返ると、そこには大手桝形虎口があります。
振り返ると大手













ここが、新府城の正面玄関です。
西北の乾門の桝形虎口と比べて土塁の規模が大きいことが分かります。
大手桝形














土塁の低くなっている部分が出入り口です。乾門と同じく内側と外側で位置がずれている喰違虎口になっています。
なお、乾門からは柱穴や礎石が見つかりましたが、大手からは見つからなかったそうです。門があったのかなかったのか?新府城については謎も多いのです。

では、新府城に入ることを許された客人の気分になって、大手から堂々と入ってみましょう。
切れ目が大手門の跡














大手の入り口の近くにはジュウニヒトエという花が咲いていましたよ。
花が重なって咲く様子を十二単にたとえたとか…花の名づけ方って本当に風流ですね。
ジュウニヒトエ














大手の桝形虎口を出てまっすぐ進むと、先ほどの砂利式の車道と合流します。
ここからは砂利道を通って本丸を目指します。
砂利道に合流














しばらく進むと道はゆるやかに右にカーブしていきます。
このカーブの上、砂利道より一段高い平坦面が三の丸跡です。
三の丸は土塁で東西に区切られています。
東西三の丸













ちなみに、三の丸の土台には雨が降った時に地下に排水をするための穴が開けられていたそうです。
排水の穴














西三の丸からさらに進むと、二の丸の前に築かれた土塁(馬出し)の跡があります。
砂利道の左右が高くなっていて、土塁の跡だということが分かります。砂利道は土塁を切り開く形で作られているのです。
二の丸手前馬出し付近













私たちは大手からこの砂利道を上がって簡単に本丸へ行くことが出来ますが、本来は別のルートだったはずです。
三の丸と二の丸の中を通って本丸へ行ったのかとも考えられますが、明確には分からないそうです。

馬出しからさらに進むと、左手に二の丸(本丸の西側で一段低い場所にある郭。勝頼の夫人か息子が住んでいた?)があります。
二の丸の入り口の門は、砂利道より高い場所にあったと考えられています。
二の丸の門












二の丸の脇を通り過ぎると、ついに本丸に到着です!
今は平坦な野原と林ですが、築城当時はここに甲府のつつじが崎の館(武田信虎・信玄・勝頼の三代にわたる政治の拠点。今の武田神社の場所にあった)に倣った建物群があったと想像してください。
本丸に着いた














本丸跡には藤武神社の社殿が鎮座し、「真田丸」のロケ地の旗もたくさんひるがえっています。
真田丸の旗














本丸に着いたら、ぜひ北側の端に行って八ヶ岳を眺めてください。
長篠合戦戦没将士の碑という巨大な石碑の左手に、眺望の開けた場所があります。
「真田丸」第一話で真田信繁と兄・信幸が八ヶ岳と新府城下を眺めて武田家の行く末を憂う…というシーンはここで撮影されました。
八ヶ岳を見よう













真田兄弟の気分になって、こんな風に立ってみると…
こんな風に立って見ると













目の前に八ヶ岳が眺められます!
本丸からの八ヶ岳













本丸で一休みしたあとは帰り道です。

帰りはルートを変えて、本丸→二の丸→井戸跡→乾門へと下ります。
本丸から砂利の車道をを引き返し、二の丸の看板まで来たら、今度は二の丸の中を通って行きます。
二の丸













二の丸の中を通り過ぎると下り坂になり、左手にすり鉢状の窪地が見えてきます。
これは井戸の跡です。雨水や山の斜面から浸みだしてきたきた水を「漏斗」上に溜める構造をしています。
発掘では4m掘っても底が現れませんでした。
井戸の解説板












整備直後の井戸跡の様子
整備後の井戸跡














井戸跡を過ぎると道が平坦になり、乾門跡へ至ります。
井戸から乾門へ














これで新府城跡を一周してきたことになります!時刻は11時55分になっていました。たいへんお疲れさまでした!
再び乾門へ戻って来た














次回の「ふるさと再発見ウォーク」は、6月11日(土) 9時~15時に穴山を歩く予定です。
お申し込み・お問い合わせは、韮崎市中央公民館 0551-20-1115 へお願いいたします。
 
今回のウォークでは、城の北西の出入口である乾門跡から入った後、左手の道(帯郭の跡をたどるコース)をとりました。
左の道へ














今回のウォークで歩いたコース。青が本丸までの往路、赤が本丸からの復路です。
お散歩マップでのルート











(新府城跡お散歩マップと解説パンフレット「親子で歩く新府城」は下記からダウンロードできます)
http://niramin01.blog43.fc2.com/blog-entry-515.html

想定復元図で本丸までの往路を示すとこんな感じ。
想定復元図でのルート













前回でご紹介した乾門の二之門を出て左手の道に入り、しばらく平坦な道を歩いていくと、道をさえぎるように窪地が横切っています。
この窪地はかつて堀でした。ということは、築城当時はこの場所に木橋が掛かり、濠を渡るようになっていたと考えられます。
いまは木橋はありませんので、歩いて窪地を渡ります。落ち葉が積もって滑りやすいので、十分注意しながら斜面を降り、向こう側へ渡ります。
木橋がかかっていた














渡った後は、道なりに林の中を歩いて行きます。
林の中を歩いて行きます












この辺りにはマムシグサという変わった形の植物がありました。ほんと、鎌首みたい。
マムシグサ














山椒の木もあったので、葉っぱを摘んで鼻に近づけてみると、本当にさわやかな香りがしました。
新府城跡では植物観察も出来ます。植物に詳しい人と一緒に行くと楽しいと思います。

堀を左手に見ながら進むと、東出構のやや上の辺りに到達します。ここが城の北東の隅ということになります。
東出構えを上から見る















ここで道は右側にカーブし、城の東面の中腹に沿いながら南に向かっていきます。
左手の眼下には県道17号線が見えます。この県道は昭和13年頃工事を行ったもので、築城時には無かった道です。
県道側に出てきました












この辺りではムラサキケマンという花が咲いていました。
華鬘(けまん)とはお寺のお堂の中の柱にかける透かし彫りの飾りです。仏様のいる場所を飾るためのもので、花や鳥、天女などが銅板に透かし彫りされています。華鬘は、元々は生の花で出来た花輪を指していたいたそうです。美しい名前ですね。
ムラサキケマン













県道を左手に見下ろしながら進むと、藤武神社の赤い鳥居が見えてきました。ここで藤武神社の石段と交差します。
藤武神社の鳥居にぶつかりました














大河ドラマ「真田丸」の第一話で、武田勝頼・真田昌幸・穴山梅雪の三人が石段を上って持仏堂へ向かうシーンはここで撮影されました。
石段を見上げたところ















なお、本丸跡に鎮座する藤武神社とそこへ参拝するための石段は、新府城築城時には無かったもので後世に作られました。
よく誤解されますが、「本丸へ直通で行くために作られた石段」ではありません。
大事なお屋形様がいる本丸に、そう簡単に行かれては困るではないですか!城とは「防御」なのですから…。

ちなみに、これも誤解されることがありますが、新府城には石垣はありません。
お城=立派な石垣というイメージを持たれることがありますが、本来、城とは「土を切ったり盛ったりして造り上げるもの」です。
ウォークの案内役をつとめた“おっきいにらみん”いわく、「城という字を思い浮かべてください。土と成という字でしょう?つまり、土で出来ている、という意味そのものなんです!」。なるほどー。

話が逸れましたが、藤武神社の石段を横切ってさらに進んで行きます。方角的には、城の南東隅を目指しています。
さらに帯郭をすすむ














すると、砂利敷の車道と交差する場所に出ました。「↑南大手門」という看板が立っている地点です。
この砂利道は藤武神社の管理のために現代に作られたものです。入り口には車止めがしてあるため、許可車両以外は入ることはできません。歩いて上ることは可能です。
大手門の看板を横切る













砂利の車道を横切って、さらに進んで行きます。
やぶの中の小道を進んで行きますが、このまま行くとお城の外に出てしまいます…。
これ以上行くと城の外へ













そこで、右手の斜面を上ることにしました。
斜面をのぼる













上ると、平坦な小道に出ました。この道を左手に進んで行くと…
平坦な小道へ出た












一気に眺望の開けた平地に出ました!ここが「丸馬出し」です。
丸馬出しに着いた













馬出しとは、城の出入口の前に作られた土塁のことを言います。
城の入り口が外から見たときに丸見えにならないように目隠ししたり、敵が来たときの防御にする目的で作られました。

新府城の馬出しは、丸く弧を描いているので「丸馬出し」と呼ばれています。城の正面玄関である大手桝形の前に作られています。
丸馬出しは武田氏の城郭に見られる特徴であり、信玄が暮らした甲府市のつつじが崎館跡(現・武田神社)からも丸馬出しが発掘されています。
丸馬出しと三日月堀














ちなみに、真田信繁が大阪冬の陣で築いた「真田丸」は、この丸馬出しを元にしているという説もあるそうです(真田丸の形については諸説あります)。

丸馬出しの下は、弧を描く土塁に沿う形で堀になっています。これを「三日月堀」と呼んでいます。

丸馬出しからは富士山も見えます。他国から来た客に対し、案内役の武田家臣は誇らしげにここからの景色を見せたのではないか…そんな想像もふくらみます。
丸馬出しからの富士山














→次回へつづく
 
先日4月30日、今年度最初の「ふるさと歴史再発見ウォーク」(韮崎市中央公民館主催)が行われました。
今回は、真田丸&武田勝頼公人気で注目の「新府城跡」ウォーク。
何回かに分けてレポートします。

当日はカラリと晴れ渡り、暑からず寒からず絶好のウォーキング日和となりました。
新府城跡見学者駐車場からの鳳凰三山。勝頼さんもこの美しい山々をのぞんでいたのでしょうね。
鳳凰三山がきれいに見えました















今回の新府城跡ウォークは、城の西北に位置する乾門跡(搦手)から入るコースをとりました。
<行き>
駐車場に集合→北側の掘→乾門→帯郭をめぐって大手をめざす→丸馬出しと三日月堀→大手→東・西三の丸の下をめぐって→二の丸の脇を通って→本丸
<帰り>
本丸→二の丸→井戸跡→乾門→北側の掘→駐車場
というルートで歩きました。

「新府城跡お散歩マップ」で示すと、下図のようなルートです。
青い矢印が本丸までの往路、赤い矢印が本丸からの復路です。
お散歩マップでのルート















(お散歩マップと案内パンフレット「親子で歩く新府城」は下記からダウンロードできます)
http://niramin01.blog43.fc2.com/blog-entry-515.html

往路を本丸跡に設置してある想定復元図で示すと、下図のようになります。
想定復元図でのルート















9時30分に新府城跡見学者駐車場に集合し、スタートしました。
駐車場に集合して出発














県道17号線を車に注意して渡り(交通量が多いのでくれぐれも気を付けて横断してください!)、城の北側の掘に添う道を歩いて行きます。
見渡してみると、歩いているこの道よりも城に近い側(下図写真の左側)に向かって低くなっていることが分かります。
この低い部分が堀だったところです。
桃畑の中の道をすすみます















↓下の写真で皆さんが説明を受けている場所もかつては堀だったということになります。
ここもかつては堀の中













草むらの中には湿地帯になっている所もあります。明らかに乾いている部分以外の草むらに入る場合は、長ぐつを用意したり、足元がぬかるんでないかよく確認してください。

ちなみに、新府城北側の堀には、「出構」という突き出た部分が東西にあるが特徴です。
(下の写真は冬に撮影したものです)
この突き出た土手は鉄砲を撃つための陣地とも、堀の水位を調節する土手だったとも考えられていますが、正確には分りません。
東出構















城の北西の入り口である乾門跡をめざして歩いて行くと、近年整備された砂利敷きの広場に着きます。
写真入りで新府城について解説した説明板やベンチも設置してありますので、お城へ入る前にぜひご覧ください。
何かを見ています














新府城跡とその周辺にある関連史跡の位置が分かります。
説明板を見ていました














家臣の屋敷の場所や、新府城の北の防御となる能見城(韮崎市穴山町)の場所を示しています。新府城だけでなく、その周辺の施設との関連性を知ることでより具体的に戦国時代のイメージがわくことでしょう。
周辺の遺跡も分かります














広場からは、現在でも水の溜まった堀を見ることができます。
発掘調査によると、この堀は今よりもさらに1.5m以上深かったそうです。
城に近づくと水が溜まっています













広場から水堀に沿ってさらに進むと、城の北西の玄関口「乾門」への土橋に到着。
この土橋で堀を渡り、いよいよお城の中に入っていく訳です。
乾門の土橋













乾門の跡と桝形虎口です。
乾門跡と桝形虎口に到着













昨年度、門の柱の跡を示す表示や礎石の復元、桝形の土塁の整備、解説板の設置が行われ、門と桝形の形がよりイメージしやすくなりました。
桝形がよく分かるようになりました
















乾門枡形虎口の整備前の状況
乾門 桝形虎口整備前の状況












乾門には外側に一之門、内側に二之門という二つの門がありました。

一之門の柱穴の出土状況
乾門 一之門の説明










二之門の礎石の出土状況
乾門 二之門の礎石の説明











この二つの穴は一之門の柱の跡を示しています。
乾門 一之門の柱穴表示













ここでご注目。一之門の正面が土塁になっていますね。二之門は、一之門の正面でなく、右にずれた場所に作られています
つまり、敵が攻めて来た場合、一之門を突破してなだれ込んできても正面の土塁にぶつかってしまいます。ここで勢いをそぐことが出来るという訳です。

このような構造を喰違虎口(くいちがいこぐち)と言います。虎口は出入口という意味です。

二之門跡には柱の礎石の復元がされています。
乾門 二之門の礎石表示













なお、乾門の二之門跡からは、柱の礎石とともに焼け焦げた木材(炭化材)が出土しています。
武田勝頼は天正10年(1582)の3月3日に新府城に火をかけて落ち延びたと伝えられています。そのことを生々しく伝える痕跡でしょう。
礎石と炭化材の出土状況は乾門二之門の解説看板で見ることができます。
乾門 二之門 炭化材の説明













乾門の二之門跡を出ると、道が二手に分かれます。
左右の道の分岐














右の道を行くと、上り坂になり、井戸跡や二の丸を経て本丸へ行くが出来ます。
乾門から最短距離で本丸を目指す場合は、こちらの道がおすすめです。

一方、左の道を行くと、城を取り巻く帯郭(おびぐるわ)の跡をめぐるコースになります。
郭(曲輪)とは、城の中を土塁や石垣、柵などで囲んで区切った区域のことを言います。
「帯郭」は、城の外周の中腹を取り巻くように作られた平坦な部分のことです。
新府城の帯郭は、城の周りをぐるりと半周して、城の南側入り口である丸馬出しや大手に向います。

帯郭コースは、時間に余裕があり、城の構造をより詳しく体感したい方向けと言えます。
草むらや落ち葉の上を歩くので、足首まで覆うズボンとしっかりした運動靴を履いていることが望ましいと思います。
また、途中で斜面の上り下りがあるので、足の弱い方にはおすすめできかねます。

今回のウォークはたっぷり半日かけて正午まで城内を巡りますので、左の道(帯郭コース)をとります。
左の道へ













→次回へ続く
 
新府城跡の周りには、「桃源郷」が広がっていることをご存知ですか?
桃の産地と言えば、山梨県では笛吹市や南アルプス市というイメージがあるかもしれませんが、実は韮崎市にも桃の一大産地があるんです。

それが、新府城跡の東側一帯に広がる「新府桃源郷」です。
新府共選所にも、誇らしげに看板が!
共選所














新府桃源郷の魅力は、土地に起伏があるので様々な角度から花を楽しめるという点です。
高い所から見渡せばピンクのじゅうたんが広がり、桃畑の中の道を下りながら散策すれば、桃の花を自分の目の高さで間近に堪能できます。
鮮やかに描かれた絵本の世界に迷い込んだようです。

新府の桃の開花状況ですが、観光協会によると今週が見頃を迎える見込みとのことです。
http://www.nirasaki-kankou.jp/

写真は昨年4月16日のものですが、今年は早くも今週が見頃になるそうなのでお見逃しなく。
桃と鳳凰三山














起伏のある地形













桃と菜の花と八ヶ岳














桃と茅ヶ岳














最近は新府城跡を訪ねる方がたいへん増えていますが、おそらく、今が一番景色が美しい時期ではないでしょうか。
桜と、桃と、菜の花が一緒に見られるのは今だけです。

車でいらっしゃる方は、新府城跡見学者用の駐車場または新府共選所の駐車場をご利用いただき、周辺を散策ください。

新府城跡見学者駐車場
新府城の脇に駐車場があります














新府桃源郷は、昭和40年代の「新府パイロット開拓事業」によって誕生しました。

昭和20年代、この地域では米や麦の栽培のほか養蚕が盛んで桑畑が多くありましたが、桃の栽培に適した土地として新府果実組合も設立されていました。
昭和38年ごろから国と県によって農業構造改革事業が進められ、韮崎市でも平地林を開拓して農家の選択的規模拡大と果樹専業農家の育成を目的に、「桃団地」の造成が計画されました。「新府地区県営開拓パイロット事業」です。
パイロット事業は昭和41年度に起工し、5年の計画で完成しました。

新府共選所の隣には、事業から15周年を記念して、昭和56年に建てられた石碑が建っています。
桃のお花見の際は、そんな歴史も垣間見ていただけたらと思います。
開拓記念碑














開拓記念碑 うら
















「景観」は、時代時代の人びとの生活によって移りゆくもの。

桃畑が広がる前は、ここは桑畑だったのかな…?
桃も桑も無かった頃はどんな風景だったのだろう?
勝頼が新府城にいるころ、この桃畑のあたりに家臣の屋敷が見えたんだろうな…
(新府共選所の東側からは、真田昌幸の弟・信尹の屋敷跡とも考えられる遺跡が見つかっています。隠岐殿遺跡といいます。詳しくはこちらの記事を参照ください)
http://niramin01.blog43.fc2.com/blog-entry-506.html

ぜひ想像してみてください。